こんにちは!ZIGです。
今回は岐阜県大垣市の上石津町にある「西高木家陣屋跡」に行ってきました!
高木家は木曽三川の水行奉行を務めた事で知られ、幕末まで諸河川の見分けや見回りの御用を務めた家。そんな高木家の陣屋跡が今も残っているのですが・・・実はこの大垣市上石津多良地区には明智光秀が生まれたという言い伝えが残っているんですよね。
目次
西高木家陣屋跡について
高木家は元々養老山の東部、現在の岐阜県海津市のあたりに勢力を張った土豪といわれています。
その後関ヶ原の合戦での功績で美濃の時・多良(大垣市上石津時・多良地区)に4300石を拝領して入郷。その後「西高木家」「東高木家」「北高木家」の三家で陣屋を構え、幕末まで同地を旗本として支配しました。
高木家三家は石高そのものは多くないのですが、「交代寄合美濃衆」として大名の格式を与えられ、参勤交代も行っています。
また高木家は川通御用の役儀を担い、江戸時代を通じて木曽三川の治水行政にあたる水行奉行を務めました。
そんな高木家のひとつ「西高木家」の陣屋跡が今も残っているわけですね。
西高木家陣屋跡へのアクセス
西高木家陣屋跡へのアクセス手段は以下の通りです。
- 名神高速関ヶ原IC⇒国道365号線を南へ(約25分)
- 名神高速養老スマートIC⇒県道227号線⇒国道365号線を南へ(約20分)
- 東名阪自動車道桑名IC⇒国道421号線⇒国道365号線を北へ(約1時間15分)
バスの場合
- JR大垣駅南口4番のりばから名鉄近鉄バス多良・時行き⇒「宮」下車、徒歩2分
- JR関ヶ原駅から名鉄近鉄バス牧田(上野)行き⇒終点で多良・時行きに乗り換え⇒「宮」下車、徒歩2分
ちなみに私はこの日大垣城を訪れた後、下道を走って西高木家陣屋跡へ行きました。
大垣城から西高木家陣屋跡までは車でおおよそ30分ほど。なので大垣城と併せて回ってみるのも良いかもしれません。
駐車場について
駐車場については西高木家陣屋跡の隣にある上石津郷土資料館に駐車スペースが用意されてます。
なので郷土資料館に訪れたついでに西高木家陣屋跡を回ると良いですね。
上石津郷土資料館
というわけでまずは上石津郷土資料館へ!
資料館の向かいに大きな駐車スペースがあるので、そちらに車を止めさせてもらいました。
上石津資料館には高木家に関連する資料や関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」に関連した資料が展示されています。
なぜここに「島津の退き口」に関する資料が展示されてるのか?という話ですが、ちょうど関ヶ原から退却した島津勢がこの辺りを通ったこと、そしてこの近くで島津豊久が自刃しているためですね。
ここからさほど離れていない場所に島津豊久の墓もあります。
また、この時は明智光秀に関する資料も展示されてました。
これは大河ドラマ「麒麟がくる」に併せての展示。明智光秀はこの付近にあった「多羅城」で生まれたという言い伝えがあるんですよね。
今回私がここに来た理由はこれが大きいのですが(笑
この話に関しては後ほどまとめます。
ちなみに展示物に関しては撮影は出来ませんでしたが、高木家に関する資料がかなり詳細に残っていて見応えがあります!ここも時間があればしっかり見て回ると面白いですよ。
西高木家陣屋跡・長屋門
上石津郷土資料館を一通り見て回ったら西高木家陣屋跡の長屋門へ向かいます。
長屋門は資料館の隣なので、歩いて1~2分程度。
すぐに長屋門が見えてきます。
この長屋門は嘉永5年(1852年)に作られたものらしいですね。本来は下屋敷の御門だったそうで、それをこの場所に移築したそうです。
結構大きな門だなーというのがとりあえずの感想でした。
館もかなり大きかったんだろうなって感じです。
ちなみに長屋門の奥にも明治時代に作られた主屋があるのですが、こちらは非公開ということでした。
長屋門の前の看板には陣屋の地図がありました。
地図で見るとどうやら現在資料館の駐車場になっているあたりが下屋敷、長屋門が移築された場所から上石津郷土資料館のあたりも含めたエリアが上屋敷だったみたいです。
実際現地で見てると分かりますが、やっぱり結構な広さがあったみたいですね。
西高木家陣屋跡・埋門跡
長屋門を見た後は道路を歩いて埋門跡へ。
埋門は上屋敷の東側(伊勢街道沿い)に当たり、今もしっかりと石垣が残されてます。
ここは上石津郷土資料館に来るときに通る道ですね。
なので実は車で来ると陣屋や石垣は最初に目に入ります(笑
埋門周辺の石垣はかなり綺麗に残ってました。
手前にある碑には「美の衆陣屋跡」と書かれてますね。
こうしてみると普通に城跡です。思った以上にしっかりとした石垣で驚きました。
ちなみに寛政年間(1789年~1801年)に編集された「濃州徇行記」には「高木三家は館を山の峰に構え、下より見上げほとんど城郭に彷彿たり」と書かれてるそうです。
やっぱり当時の人にも館じゃなくて城みたいに見えてたって事ですねー。
こちらが埋門跡。
実に綺麗に石垣が残されてます。
埋門横の石垣の上に何か石碑が建ってますね。
写真だと何書いてあるか分かりませんが、近づいてみたら「高木三家入郷」という文字が見えました。割と最近になって建てられた石碑のようです。
こちらは屋敷寄りの石垣ですね。
ちなみに石垣は2~3m位の高さはあるので、近くまで行くと見上げるような感じになります。
ちょっと上屋敷の方へも登ってみました。
館側から見下ろすとこんな感じです。
こうやってみるとホントに城のような館だったんだなって感じですね。
ちょうどこの辺りは美濃・近江・伊勢の国境でもあるし、伊勢街道沿いでもあるので有事の際の備えての構え、という意味もあるのかもしれません。
東高木家土蔵
埋門から少し歩きますが、伊勢街道沿いに東高木家土蔵が残されてました。
北高木家・東高木家は明治維新後に多良を離れたそうなので、陣屋などは残っていないみたいです。残ってるのはこの土蔵だけのようですね。
土蔵の前には「伊勢街道」の石碑がありました。
ちょうどここを旧伊勢街道が通ってたみたいですね。
土蔵の横には石垣がありました。
まさしくこの下り坂が旧伊勢街道の道だったらしいです。なのでもしかしてこの石垣も結構昔からあるのかも?
ちょっと真相は分かりませんでしたが(汗
・・・とまあこんな感じで遺構を見て周り、上石津郷土資料館へ戻りました。
思った以上にしっかり石垣が残ってたのがやっぱり印象的でしたね♪
明智光秀が生まれたと言われる「多羅城」
▲上石津郷土資料館で貰える多羅城パンフレット▲
東京大学史料編纂所の「大日本史料」の中にある「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、「明智光秀は享禄元年(1528年)8月17日、石津郡多羅にて生まれる。多羅は進士家の居城なり」という記載があります。他にも「続群書類従」の明智系図にも「光秀は美濃国多羅城で生まれる」と書かれてるんですよね。
これらの記載を信じると、光秀はここ多良周辺で生まれたということになります。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば進士山岸勘解由左衛門尉信周は明智家当主・明智光綱の妹「市の方」を妻としていて、その次男が光秀だと書かれてます。ここで明智家との繋がりがあるわけですね。
光綱は子供に恵まれず、進士(山岸)信周の次男・光秀を養子として明智家に譲り受け、家督を継がせた・・・というわけです。
多羅城の場所は今も不明
多羅城は現在も場所がハッキリしていないそうです。
西高木家陣屋跡のあたりにあったのではないかとも言われてますが、確証はありません。この近隣には「城」と付いた地名が複数あって、そのいずれかが多羅城があった場所ではないか?とも言われてるそうです。
ただそれらの場所は現在すべて私有地になってるらしく、なかなか場所の特定には至ってないみたいですね。
光秀誕生の言い伝えと共に、その存在はまだ謎のままということです。
光秀が多羅で生まれた可能性は低い?
ちなみに光秀が多羅城で生まれたという話は可能性としては低いと言われてます。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」の信頼性もハッキリしてないためですね。一般的には可児市の明智城で生まれたという説が有力だとされています。
ただ個人的にちょっと面白いなーと思ったのは、光秀の娘であるガラシャが自分の子供に「多羅」という名前を付けてるところですね。
この娘の名付けとこの地区は何か繋がりがあったのでは?とちょっと妄想しちゃいます。まあなんの根拠もない話だし、「偶然」と言われればそれまでですけど(笑
このあたりの話に関しては上石津郷土資料館に色々史料も展示されているので、興味ある方はぜひチェックしてみて下さい。
まとめ
というわけで西高木家陣屋跡を紹介しました!
明智光秀生誕の地でもある・・・という話から興味を持った場所でしたが、思った以上に見応えのある石垣もあって楽しめました。
また資料館に展示されている史料もかなり歴史的価値の高いものが多いので、併せてチェックすることをおすすめします♪