田辺城 | 関ケ原の戦いの前哨戦の舞台となった丹後の城(京都府舞鶴市)

田辺城の櫓門

こんにちは!ZIGです。

今回は京都府舞鶴市にある田辺城を訪れたので紹介します!

田辺城は細川藤孝が丹後統治の拠点として築城した城ですが、後年関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる戦いの舞台にもなりました。

田辺城について

田辺城の縄張り図
上記の画像は舞鶴公園にあった田辺城の城郭復元図です

田辺城は関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われる籠城戦が行われた城として知られてますね。

室町時代、田辺城があった場所には丹後守護職・一色氏の居館があったと言われています。しかし天正6年(1579年)に細川藤孝・明智光秀によって一色氏は滅亡。その後丹後は細川藤孝が治めることになります。

細川藤孝は始め宮津城を居城としますが、後に一色氏の居館があった加佐郡八田を田辺と改名。そこに田辺城を築き、丹波統治の拠点としました。

しかし本能寺の変が起きた際に藤孝は隠居して嫡男・忠興に家督を譲ります。これ以降は忠興が田辺城に入り、藤孝(幽斎)はふたたび宮津城に入ったみたいですね。

 

関ヶ原の戦いの際、細川忠興が東軍(徳川家康)へ付いたため丹後は西軍の攻撃を受けることになります。この際藤孝は宮津城を焼き払って田辺城に籠城し、わずか500の兵で15000の兵の攻撃を50日にわたって退けました。

ちなみにこの時、藤孝(幽斎)は華道の奥儀と言われる「古今伝授」を唯一相伝した人物でした。古今伝授は古今和歌集の詠み方や解釈をまとめた秘伝ですね。

藤孝(幽斎)が討たれてしまえば、この古今伝授が失われてしまう・・・

それを恐れた御陽成天皇が最終的に仲介に入り、田辺城の戦いは終わります。

こうして藤孝は15000もの西軍の軍勢を田辺城に引き留めたわけですね。この功績は大きかったと言えるでしょう。息子の忠興も関ケ原の戦いで功績があり、細川家は関ヶ原の戦いの後に豊前に加増・転封となります。

田辺城はその後京極氏・牧野氏が入り、牧野氏は10代に渡って城主を務めました。

 

そんな田辺城は現在は舞鶴公園として整備されてます。公園は田辺城の本丸及び二の丸の一部が含まれ、現在も公園内には天守台や本丸の石垣が残されてます。

また、復元城門の2階には史料館があり、細川家・京極家・牧野家時代の史料を確認できるので訪れた際は併せてチェックしてみると良いですね!

 

田辺城アクセス

田辺城跡
〒624-0853 京都府舞鶴市字南田辺15ー22

田辺城はJR西舞鶴駅が最寄り駅。駅から北へ300mほど歩けば到着します。

時間にして5分~10分程度ですね。

車の場合は舞鶴西ICが最寄りのインター。5~6kmほどの距離なので10分くらいで到着します。

 

駐車場は南田辺駐車場へ

南田辺駐車場

田辺城は公園になっているので駐車場もある・・・と思っていたらありませんでした(汗

なので近隣の南田辺駐車場(有料)を使用する形になります。

この駐車場は1時間以内なら100円で利用出来るようになっており、以降は30分ごとに50円加算とのことでした。

まあ舞鶴公園はそれほど大きな公園ではないので、1時間あれば充分見て回れると思います。

 

田辺城跡(舞鶴公園)

というわけで田辺城跡(舞鶴公園)へ行ってきました!

車は南田辺駐車場へ置き、公園南側の城門へ向かいます。

城門(田辺城資料館)

こちらが公園南側に建てられている城門ですね。

田辺城の復元城門

この城門はもちろん復元で、本来この場所に城門があったわけではありません。

この場所は本来本丸の堀があった場所らしいですね。

なのであくまで雰囲気を出すための復元みたい。ちなみにこの城門の2階が田辺城資料館になっているので、覗いてみると良いと思います(大人200円/学生100円)。

江戸時代に丹後国を治めた牧野家に伝わる甲冑も展示されているのでなかなか見応えがありました。

 

城門には「ゆうさいくん」というキャラクターがいました(笑

田辺城の幽斎君

「ゆうさい(幽斎)」は先ほども書きましたが細川藤孝の隠居後の名前ですね。

 

城門をくぐると、左手に本丸石垣と2階建ての櫓が見えます。

田辺城の櫓門と彰古館

この櫓は「彰古館」という資料館になってました。

田辺城資料館と違って無料で入れますが、無料なのでさほど期待はしない方が良いです(笑

 

天守台跡

城門を入って右手に天守台跡がありました。

田辺城天守台

正確には天守台の東側石垣とのこと。

天守台は東西約21m、南北推定31m。自然石や荒割石を使った「古式穴太積み」で、細川藤孝・忠興父子が天正年間に築城した当時のものであると確認されているそうです。

 

角度を変えて北側から写真を撮ってみました。

田辺城天守台

もちろん復元されているのでしょうけど、なかなか見応えがありますねー。

 

こちらは西側から撮影した天守台。

田辺城天守台

細川藤孝・忠興が治めていた当時は天守台の周りは水堀になっていたらしいです。

 

ちなみにこちらが本丸および本丸の堀があったと思われるエリア。

舞鶴公園

現在は完全に整地されて公園になっているので、堀だった痕跡は何も確認出来ませんでした。

 

本丸石垣

天守台の北側には本丸の石垣がしっかり残ってました。

田辺城本丸の石垣

結構広範囲に残ってます。

 

本丸は水堀で囲われていたらしいですが、堀は完全に埋められてしまってるみたいですね。

田辺城の本丸石垣

 

本丸井戸跡

本丸石垣の近くには井戸跡がありました。

田辺城本丸の井戸跡

石垣も井戸に合わせて窪んでるのが分かりますね。

この井戸は細川氏・京極氏が城主だった時代に使われていたものだそうで、当時の瓦や陶磁器、魚や動物の骨が見つかってるそうです。

細川藤孝が籠城した当時もきっと使われていたんでしょうねー。

 

心種園

本丸の北側、二の丸のあったエリアには「心種園」という庭園があります。

田辺城の心種園

この庭園は細川藤孝がいた当時からあったものらしく、古今伝授と共に和歌を詠んだ場所だと言われてます。結構な広さのある庭園でした。

 

庭園内には藤孝が詠んだ句を刻んだ石碑もあります。

舞鶴公園・心種園の石碑

「古(いにしへ)も今もかわらぬ世の中にこころの種を残す言の葉」と刻まれてますね。

 

二の丸石垣

舞鶴公園の北端には二の丸の石垣が残されてます。

田辺城二の丸石垣

本丸の石垣と比べると高さは半分程度といった感じですね。

ただ、もしかしたら下部は埋まってるのかもしれません。

 

公園の端なのでかなり草が生えちゃってましたが、結構広範囲で石垣が残ってました。

田辺城二の丸石垣

石垣の手前は側溝になってますが、当時はここに堀があったはずですね。

 

二の丸石垣を見ていたら田辺城跡の看板を見つけました。

田辺城跡の看板

こんな場所にあったら気付かず帰っちゃう人多そうですね(笑

 

そういえば二の丸石垣の一部は道路にはみ出してて、そのまま残されていました。

道路にはみ出した田辺城の石垣

こういう残し方もなかなか斬新ですね(笑

 

まとめ

というわけで田辺城を紹介しました!

田辺城は平城なのであまり遺構は残ってないのでは・・・と思いましたが、意外としっかり石垣や天守台が残ってました。この辺りはなかなかの見応えですね。

資料館も広くはありませんでしたが、色々展示もあるので見て損はありません。石垣や天守台と併せて見ると田辺城の当時の姿をイメージ出来て楽しめますよ♪