こんにちは!ZIGです。
今回は京都市伏見区にある「小栗栖八幡宮」を紹介します!
ここは昔小栗栖城(小栗栖館)があり、ここを拠点としていた飯田一党は山崎の戦いに敗れ、落ち延びた明智光秀を討ち取ったとも言われています。八幡宮近くには明智光秀終焉の地とされる「明智藪」もあり、一緒に訪れてみました。
小栗栖八幡宮(小栗栖城)について
小栗栖八幡宮の送検は貞観4年(西暦864年)と言われていて、清和天皇統治の時代になります。
このころ武内宿禰(たけのうちのすくね)の末裔に当たる紀興道という方が関東守護職を命じられ、下向するに当たって男山八幡宮の分霊を勧請して創建したのが始まりだそうです。足利時代には社領が36石あったそうですが、室町幕府が滅亡してからは衰退してしまったという解説が境内の看板に書かれてました。
・・・で、戦国時代は飯田性を名乗る方が神主を務め、武士集団としてもこの辺りを拠点にしていたようです。
同じく境内の看板に「地頭は飯田左近将監 左近屋敷は神主で 小栗栖城主で 飯田家の屋敷であり現在は石垣のみ残る」という記載がありました。
ちなみに近隣にある明智藪の石碑には光秀が「信長の近臣、小栗栖館の飯田一党の襲撃を受けてあえない最後を迎えた」とあったので、この土地では明智光秀は飯田一党に討たれたという言い伝えが残っているみたいですね。
秀吉との戦いに敗れた光秀は坂本城に退くためにこの辺りを通るはず・・・と飯田一党は網を張っていたのかもしれません。
小栗栖八幡宮アクセス
小栗栖八幡宮は新小栗栖街道を少し西に上った場所にあります。
近隣はあまり広い道ではないので、車でのアクセスの場合は注意が必要。近隣にある明智藪や本経寺なども併せて訪れようと思っている場合は近隣駐車場に車を止め、歩いて行った方が返ってスムーズです。
駐車場に関しては明智藪の記事で詳しく解説してますので、併せて参考にして下さい。
小栗栖八幡宮と境内の石垣
というわけで小栗栖八幡宮に行ってきました!
この時は新小栗栖街道沿いのコインパーキングに車を止め、明智藪・本経寺を訪れた後に小栗栖八幡宮に行きました。
道路沿いに石塔と本経寺・明智藪の案内看板が立っているのが目印になります。
この階段を上った先が小栗栖八幡宮ですね。
こちらが小栗栖八幡宮の鳥居です。
鳥居はかなり新しい感じですね。
最近塗り無ししたかのような鮮やかな赤色でした。
それに周辺もしっかり手入れがされていて綺麗です。
きっと地元の方がしっかり管理されているんでしょうね。訪れる方も多いのかもしれません。
境内もゴミが落ちてたりとか草が生えまくってるということもなく、手入れされてる印象でした。
社殿は一段高い場所にあり、その前に石垣がありますね。
ただ、これが小栗栖城(小栗栖館)だった当時のものなのかどうかはちょっと判断が付きませんでした。
こちらが社殿ですね。
祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后とのこと。
絵馬が沢山奉納されてるのを見るとやっぱり訪れる方は多いみたいですね。
本殿の向かって右手には末社がありました。
参拝後、本殿前の石垣を近くで撮影してみました。
割と古いもの、と言われればそんな気もするんですが、こんなに綺麗に残ってるのとも思えないですよね・・・
復元されたもの、とかだったりするんでしょうか?
帰りにふと気付いたんですが、入り口の階段周辺の方が石垣の名残っぽく見えました。
なんとなく人工的に並べられたもののように見えませんか?
ちょっと確証は持てませんが(笑
まとめ
というわけで小栗栖八幡宮(小栗栖城)を紹介しました!
城や館としての遺構はハッキリ分かるものは何ありませんでしたが、ここを飯田一党が拠点としていたことは確かなのでしょうし、明智光秀を討ったというのはあり得ない話じゃないのかもしれません。
この周辺には光秀が討たれたと言われる明智藪、光秀の供養塔がある本経寺もあるので、併せて訪れてみると良いんじゃないかと思います。