こんにちは!ZIGです。
今回は福井県福井市にある「一乗谷朝倉氏遺跡」を紹介します!
一乗谷は戦国大名・越前朝倉氏が越前統治の拠点とした場所として知られてますね。一乗谷にはその当時の遺構が今もしっかり残っているので、かなり見どころが多いですよ♪
一乗谷朝倉氏遺跡について
一乗谷は戦国時代・越前朝倉氏が5代103年に渡って本拠地とした場所になります。
一乗谷は名前の通り谷になっていて、この谷間に城下町が作られ、山上には城が存在しました。
越前朝倉氏は5代目義景の時代に織田信長によって滅ぼされてしまいますが、その後越前を治めた柴田勝家は北之庄を拠点にしました。そのため一乗谷は辺境となり、その後歴史の中に埋もれてしまいます。
・・・が、その結果武家屋敷や寺院・職人達の屋敷や道路などといった当時の町割りがそのまま残され、最近になってほぼ完全な姿で発掘されました。つまり滅ぼされてしまったことで戦国時代の街並がそのまま残り、現代に蘇ったわけですね。
そのため現在では一乗谷全体が国の特別史跡に指定されています。
また遺跡内にある4つの日本庭園が「一乗谷朝倉庭園」として国の特別名勝にも指定されてますね。
そんなわけで一乗谷朝倉氏遺跡は戦国時代の城下町の全貌を見ることができる場所であり、当時の朝倉氏の隆盛を知ることができる場所でもあるわけです。
一乗谷朝倉氏遺跡アクセス
一乗谷朝倉氏遺跡は車の場合福井ICから国道158号線経由で15分ほど。
電車の場合は越美北線の「一乗谷」駅が最寄り駅。駅から徒歩10分ほどで一乗谷朝倉氏遺跡エリアに入ります。
ちなみに車の場合、一乗谷へは北側と西側からアクセス出来るのですが、基本的には北側からアクセスすることをおすすめします!西側(東大味)からの道はめちゃめちゃ細いです(汗
実は私、明智神社に行った後にそのまま一乗谷へ突入してしまったのですが、あまりの道の細さにビビりました。
なので一乗谷へのアクセスは北側からがおすすめ。一乗谷朝倉氏遺跡資料館を目印にすると良いでしょう。
一乗谷朝倉氏遺跡の駐車場
一乗谷朝倉氏遺跡はエリア全体がしっかり整備されているので、駐車場が至る所に用意されています。
なのでいずれかの場所に車を止め、歩いて遺構を見て回るとよいでしょう。
全長が4キロ近くあるので、ある程度車を移動させながら遺跡を見て回ると良いんじゃないかと思います。
ちなみにエリア内の駐車場はすべて無料。料金はかかりません。
一乗谷朝倉氏遺跡
というわけで一乗谷朝倉氏遺跡に行ってきました♪
この時はまず遺跡南側にあたる「復元街並」南側の駐車場に車を止めることにしました。
復元町並は有料(210円)ですが、朝倉氏が栄えた当時の町並が再現されたエリアです。
ここも一乗谷まで来たなら見ておくと良いですね。
ここについては後ほど紹介します。
復元町並周辺はかなり大きな駐車場が完備されてました。
バスが駐まるスペースもあり、観光で訪れる方が多いことが分かります。
復元街並前にはトイレや売店、自動販売機もありますし、屋台や飲食スペースもありました。
ちょっと休憩するのにもちょうど良い感じですね。
遺跡を見て回るには結構歩きますし、ペットボトルをひとつ買っておくと良いかもしれません。
上城戸跡
まずは城下町の最南端、上城戸跡に向かいます。
復元町並駐車場から車道に沿って南に歩くと大きな土塁が見えてきます。これが上城戸跡ですね。
上城戸跡は一乗谷の南側に築かれた巨大な土塁で、城門が置かれていました。
谷幅が最も狭まった場所に築かれているそうですが、それでも土塁は長さ100mにもなり、高さも5mというなかなかのサイズ。
写真で見ると大きさがイメージしにくいのですが(笑
実際に目で見ると確かにかなりの大きさがありました。
一乗谷川を越え、反対側から上城戸跡の近くに行けます。
土塁の上にも登れるようなのですが、この時はなぜか立ち入り禁止となってました。
上城戸跡の横には大きな堀も残っています。
発掘調査では上城戸周辺にも多くの建物が建っていたことが分かってるそうです。
一乗谷最盛期にはかなり建物も密集してたんでしょうね。
ちなみに絵図や字名からの推測とのことですが、この上城戸の外辺りに美濃を追われた斎藤竜興の屋敷もあったのではないかと言われてるらしいです。
やはりあくまで客将なので、一乗谷の外れに屋敷を与えられたって事ですかね。
ここに居た頃の斎藤龍興はいずれ美濃に返り咲いてやる!とか考えてたんでしょうか・・・
米津地区
上城戸跡から一乗谷中心部へ向かっていくと、米津地区というエリアがあります。
ここは朝倉氏お抱えの職人たちが暮らしていたエリアらしいですね。
このエリアからは工房跡や炉跡が発見されており、刀装具なども見つかっているのですが、それ以外にもガラス製作に関わる遺物も数多く出土しているとのこと。室町~戦国時代はガラス製品はまだ珍しく、輸入に頼るところが大きかったと言われてます。
しかしここでガラス製品が作られていたとすると、朝倉氏の工芸技術力がかなり高かったことになりますね。
職人たちは上級武士たちと遜色ないレベルの屋敷に住んでいたのではないか?と言われてます。
確かにこの米津地区だけでもかなりのスペースがありました。
諏訪館跡庭園(特別名勝)
米津地区の横に道があり、登っていくと諏訪館跡庭園へ行けます。
諏訪館跡は特別名勝に指定されてる庭園のひとつですね。
こちらが諏訪館跡庭園になります。
もうね、完全にどこから見ても庭園です。なんだそりゃって感想ですが(笑
想像以上にキレイに原形を留めていて驚きました。
ちなみにこの庭園は朝倉義景の最愛の妻と言われる「小少将」のために作られたものだそうです。小少将は「愛王丸」を生んだ人として知られてますね。
滝石組のところに生えてるヤマモミジは戦国時代からのものではないらしいですが、樹齢100年を越えるとのこと。
紅葉の時期とかにくるとキレイでしょうねー、これ。
そんなヤマモミジの横、滝口のあたりには「諏訪の立石」と呼ばれる高さ4mを超える巨石があります。
この巨石には朝倉氏供養のために朝倉教景(宗滴)、3代当主朝倉貞景・4代当主朝倉孝景の法名が江戸時代に彫られ、今も残っています。ちょっと離れた場所から撮ったので写真ではよく見えませんが(汗
朝倉教景(宗滴)は朝倉氏の参謀として有名ですね。この方が亡くなった後、朝倉氏は滅亡へと向かっていくことになります・・・
諏訪館庭園は上段と下段に分かれていて、滝石組の横から上段へ上れます。
この道もいかにも庭園って感じですねー。
上段に上ってみると、奥にも明らかに人工的な地形がありました。
更に上段まで何かしらの建物があったんですかね?
そして上段庭園の中心部には礎石がありました。
上段部分は屋敷があったっぽいですね。
英林塚(朝倉孝景公墓所)
諏訪館跡庭園から更に山を登っていくと、英林塚があります。
英林塚は戦国大名・越前朝倉氏の初代・朝倉孝景の墓ですね(越前朝倉氏は4代目も「孝景」なのでややこしいですが、初代の孝景の方です)。
英林塚へ向かっていく途中にも土塁や石垣などの遺構を見ることができます。
当時はこの辺りも建物が並んでたんでしょうね。
しばらく登ると建物が見えてきます。
これが英林塚ですね。
お墓と聞いていたので、こういう建物が出てくるとは思いませんでした(汗
ちなみに建物の中には普通にお墓がありました。
墓石を守るために後から外側の建物を作ったみたいですね。
中の御殿跡
今度は英林塚を西側に下り、中の御殿跡へ向かいます。
中の御殿跡は朝倉義景の実母・光徳院の屋敷だったらしいですね。
中の御殿跡へ向かう道沿いでも土塁がいくつか目に入りました。
至る所にこうした遺構が残っているので、一乗谷は本当に見どころが多いです。
中の御殿跡の近くまで来ると、まず空堀が目に入りました。
土塁もあって、ここは物見台だったそうです。
土塁に登って下を見ると中の御殿跡だけでなく、一乗谷が広く見渡せるようになってました。
こうしてみると中の御殿もかなり敷地が広いのが分かりますね。
斜面を下っていくと、南側に中の御殿の門跡があります。
土塁・石垣もしっかり残ってますねー。
実際敷地に入ってみると、上から見た以上に広く感じました。
先ほど登った土塁もかなりデカいのが分かります。
芝生のない、砂利が敷かれたスペースは池跡でした。
ここにも庭園があったっぽいですね。
諏訪館跡などと違って壊されてしまったみたいです。
礎石の並びを見るに、池跡の北側に3棟の建物があったみたいですね。
敷地の割には小規模な建物だったのかな?という印象でした。
湯殿跡庭園(特別名勝)
中の御殿跡の次は湯殿跡庭園へ。
ここも特別名勝に指定されている庭園のひとつですね。
中の御殿跡と湯殿跡庭園の間には大きな空堀が残ってました。
下の方には朝倉義景の屋敷(朝倉館跡)の掘と土塁が見えてますね。
こちらが湯殿跡庭園になります。
諏訪館跡庭園と違ってこちらは平面でした。
石組の印象もかなり諏訪館跡庭園とは異なりますね。
こんな感じで一乗谷には複数の庭園が造られてるのですが、それぞれに印象も異なるそうです。
湯殿跡庭園の石組みは「荒々しさ」を感じさせるものなんだとか?
このあたりは専門的な知識がないので大した評価もできませんが(笑)たしかに諏訪館跡庭園の方が優雅な印象を受ける気はしました。
ちなみに湯殿跡庭園はどのような役割の場所だったかは分かってないそうです。
朝倉館跡/朝倉館跡庭園(特別名勝)
湯殿跡庭園からは朝倉館跡の全容を見渡せます。
黒くなってるところが建物があった箇所で、現在は舗装された状態になっています。
手前の方に建物に囲まれた中庭・花壇も確認出来ますね。
朝倉館跡は5代目当主・義景の館で、一乗谷でも最大規模の敷地面積を誇ります。
面積は6400平方メートルもあり、敷地内には10棟以上の建物があるだけでなく庭園も作られてました。この庭園(朝倉館跡庭園)が特別名勝のひとつになってますね。
ひとまず入り口に移動して唐門の写真を撮りました(笑
一乗谷朝倉氏遺跡の写真で一番よく見るのがこの唐門ですね。
ちなみにこの唐門は戦国時代当時のものではなく、江戸時代になって建てられたものだそうです。
こちらは朝倉館跡の周囲に残る掘ですね。
館は山側を除く三方を幅8m、深さ4mの掘と土塁で囲まれていた・・・という話なので、おそらく当時はもっと大きい上に深い掘だったんじゃないかと思います。現在の掘はそこまでの幅はないし、深さもほとんどありませんでした。
館敷地内からも土塁などの遺構を確認できます。
かなり綺麗に形が残ってるので、この辺りはある程度復元かもしれないですね。
こちらが朝倉館跡庭園になります。
屋敷の東側、山沿いに作られていて、その横には茶室がありました。
この庭園は水を引いていた水路もしっかり残ってますね。
朝倉館跡の敷地内には5代・朝倉義景の墓所もあります。
この墓所はもちろん後から作られたもの。
ただ意外と歴史は古く、1576年にはすでに村民が建てた小祠があったらしいです。
朝倉義景が自刃したのが1573年ですから、その3年後ということになりますね。
その後、1663年に福井藩主松平光通が同じ場所に墓塔を建立したそうです。
祠の中に石塔が見えたので、それが江戸時代に建てられた墓塔なのかな?という印象でした。
ちなみに朝倉義景の墓所は同じ福井県の大野市にもあります。
朝倉義景が自刃したと言われる賢松寺の近くですね。
南陽寺跡庭園(特別名勝)
朝倉館跡の次は南陽寺跡庭園へ。
南陽寺跡庭園も特別名勝に指定されている4つの庭園のひとつですね。
ちなみに南陽寺は朝倉家の子女が入寺する禅宗の尼寺だったそうです。非常に豪華な外観だったらしく、戦国期には「金碧奪目」と称されたなんて話もあったみたい。こういうところにもお金かけてたみたいですね義景さん・・・
朝倉館跡を北へ向かうと舗装された道路に出ました。
このあたりは完全に住宅地ですね。
少し歩いて行くと道沿いに案内が出てました。
右折すると南陽寺跡・英林塚に行けるとありますね。
しかし・・・
住宅の間にめっちゃ細い道があるだけなんですが(汗
ええと、ここ登るの?(汗
と一瞬迷いましたが、案内は確かにこの道を指してるので、信じて登って行くことに。
すれ違いもできないでしょ・・・という細い道を登っていきます。
登って行ったら確かに南陽寺跡庭園ありました(笑
もちろん建物は何も残っていませんが、若干建物があったらしき場所は盛土がありました。
そしてこちらが南陽寺の庭園ですね。
諏訪館跡は湯殿跡の庭園と比べると少しこじんまりとした印象でした。
埋まってしまったのか、どの程度の池があったのかまでは分かりません。
庭園の横には歌が刻まれた石碑があります。
これは足利幕府15代将軍・足利義昭と朝倉義景の歌だそうです。
永禄11年(1568年)春、義景は当時まだ将軍ではなかった義昭を招き、ここで歌会を催したそうです。その時に歌ったのが以下の歌でした。
- 足利義昭「もろともに 月も忘るな 糸桜 年の緒ながき 契と思はば」
- 朝倉義景「君が代の 時にあひあふ 糸桜 いともかしこき けふのことの葉」
まあ簡単に言えば義昭は「長い付き合いを望む」と言っていて、義景はそれに答えたって感じですね。
要するに義昭は義景に上洛を促していたわけです。しかし結局義景は積極的には動きませんでした。なのでこの年のうちに義昭は一乗谷を離れ、織田信長を頼り、上洛を果たすことになります。
平面復元地区
庭園を一通り見て回ったら一乗谷川を渡り、対岸の平面復元地区へ。
ここは当時の区画がしっかり残ってますし、遺構もたくさんあるので見てて楽しめます。
・・・が、写真だと魅力が伝わりにくい場所でもあるので、ぜひご自分の目でご覧ください(笑
とりあえず印象に残った場所をひとつ。
平面復元地区の一画には医師の館跡がありました。
ここからは医学書や薬の調合道具が発見されたため、そう考えられてるそうです。
当時は戦乱で荒廃した京都から多くの公家・僧侶・学者が一乗谷へ下向していたらしいですね。そのため当時としては最高レベルの知識を持った医師が暮らしていたと言われています。
平面復元地区は場所によってはこんな石垣も残されてます。
こういう場所、遺跡っぽくていいですよね♪
水路の後も綺麗に残っていたりするので、ゆっくり回ってみると本当に見所が多い場所です。
雲正寺地区
平面復元地区の横には雲正寺地区と呼ばれるエリアがあります。
名前の通りで寺院が存在したエリアだったみたいですね。複数の寺院があったらしいです。
寺院の階段や石垣らしき遺構が残ってました。
ちなみにこのエリアは「八地谷」と呼ばれていて、谷の奥の方まで建物があったことが分かっているそうです。
登って行くことはできませんでしたが、確かに奥の方まで石垣が続いてました。
こちらも寺院の階段跡ですね。
かなり大きな寺院があったんじゃないかな?という印象でした。
復元町並
平面復元地区・雲正寺地区を見ていくと、復元町並の北側駐車場に出ます。
復元町並は有料ではありますが、せっかく一乗谷まで来たらな見ておいた方が良いんじゃないかな?って感じの場所です。エリアとしてはさほど広くはないのですが、当時の暮らしをイメージできるので面白いですよ♪
料金はひとり210円でした。
ただ、一乗谷朝倉氏資料館との共通券を買うと230円で両方入れるので、どうせなら共通券を購入しておいた方が良いと思います。20円しか違いませんしね(笑
共通券は復元町並・資料館両方で購入可能です。
復元町並エリアは有料なので、通りの写真を一枚だけ。
左右に屋敷跡や住居跡があり、当時の暮らしを再現している建物も複数存在します。
このエリアには重臣の武家屋敷と庶民の町家が混在していたらしいですね。それがそのまま再現されてて、庶民と武家の経済格差をありありとイメージ出来るのも印象的でした(笑
朝倉景鏡館跡
復元町並を見た後は車に乗って資料館の方へ向かいます。
流石に全ての遺構を歩いて回るのは大変だったので移動することにしました(笑
車で下城戸方面へ向かっていくと、道沿いに朝倉景鏡館跡がありました。
敷地の規模は5000平方キロメートル以上とのとこで、朝倉義景の館に継ぐ広さがあるそうです。
朝倉景鏡と言えば義景の従弟でもあり、義景時代に何度も朝倉軍を率いて出陣もしてる人ですね。織田信長を退却させた「金ヶ崎の退き口」でも、朝倉軍を率いたのは景鏡でした。
ただ・・・正直景鏡の館跡、遺構はほぼ残ってないですね(汗
奥に見える土塁は盛り土して再現した物らしいですし、他の館跡に比べてなんとも扱いが適当な印象を受けました。これはやはり、景鏡が最後に義景を裏切ってるからでしょうか・・・
というかアレですね。義景の館が豪華すぎるだけかもしれませんね。
西山光照寺跡
西山光照寺跡は一乗谷を北に少し外れた場所にあります。
西山光照寺は戦国時代に隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院跡。初代の朝倉孝景に敗れた叔父の鳥羽将景(朝倉将景)の菩提を弔うために建てられたらしいですね。
とりあえずこの寺院跡、めちゃくちゃデカくて驚きました。
先ほど見た南陽寺よりも明らかに敷地面積も広いです。復元かもしれませんが、やけにしっかり石垣も残ってました。
こちらが本堂などがあったと考えられるエリアですね。
ちなみに山側には更に敷地がありました。
山側の敷地は墓地だったようで、発掘調査で340体以上の石塔・石仏が見つかっているらしいです。
本堂があったと思われる付近には地下式倉庫も残されてました。
ここからは陶磁器などが出土してるとのこと。
なにやら梵字が刻まれた石碑もありました。
盛舜・真盛上人碑と書かれてます。
盛舜上人は後に西山光照寺を再興した方、真盛上人は天台宗真盛派の総本山・西教寺の中興の祖と言われる方ですね。真盛上人はここにも訪れていたということでしょう。
石碑の梵字をアップにしてみるとこんな感じ。
意味はよく分かりません(汗
これはいつ頃からここにあるものなんでしょう・・・
そして西山光照寺跡の見どころはこちら。
池跡の周囲に並ぶ40体ほどの石仏群です。
ずらりと並んだ石仏はなかなかに見応えがありました。
表情もそれぞれ異なります。
中にはかなり大きなサイズの石仏もありました。
こちらは不動明王の像ですね。
中にはだいぶ崩れてしまっているものもありました。
しかしそれがまた歴史を感じさせます。
顔が削られてしまったもの、折れた首が復元された石仏も結構あったので、自然に壊れたというよりは故意に壊されたような印象でした。ただ、それがいつ行われた事なのかは分かりません。
こちらは千手観音像ですね。
これらの石仏は発掘調査で昔からこの場所にあったことが分かっているそうです。
ちなみに西山光照寺跡は石碑が建ってるのですが、恐ろしく傾いてました(汗
絶妙なバランス、というより倒れないか心配になるレベルです・・・
安波賀春日神社
西山光照寺跡から下城戸の方へ向かい、山際を500m程歩くと安波賀春日神社があります。
安波賀春日神社は朝倉氏の時代から続く神社。織田軍の侵攻によって一度社殿は焼失してしまったそうですが、元禄10年(1697年)、福井藩主松平氏によって社殿が再建されました。
ちなみに境内に貼られていた安波賀春日神社の略誌に書かれてたのですが、朝倉氏は滅亡時に「以後越前の国主たる者には子々孫々に至るまで祟るべし」という恨み言を残したそうです。誰が残したかは書かれてませんでしたが、やはり義景でしょうか?
確かに最後は身内に裏切られて滅びてますし、かなり無念だったでしょうしね・・・
その祟りなのか、実際に福井藩主となった松平家は不運不幸が重なったそうです。なので朝倉家の怨霊除去・松平家の繁栄のために安波賀春日神社を再興させ、同時に朝倉義景の分霊を祀る瀧殿社を造営したんだそうです。
こちらが安波賀春日神社の鳥居です。
境内はかなり苔むしていて、それがまた良い雰囲気を醸し出してますね。
ちなみにこの日は雨が降っていたので、滑りやすくなってました。
雨の日に訪れる方は要注意。
少し階段を上ると本殿が見えてきます。
現在の社殿は江戸時代に建てられたものだそうです。
確かにかなり年季の入った感じの社殿でした。
そして社殿の山上には瀧殿社がある、ということだったので社殿横の階段を上っていくと・・・
確かに小さな社がありました。
ただ、なぜでしょう?
2つあります・・・(汗
これは結局どちらが瀧殿社か分かりませんでした。
下城戸跡
安波賀春日神社から下城戸跡へは歩いて2~3分程度で到着します。
下城戸は上城戸と同様、一乗谷を守る城門ですね。
下城戸は一乗谷の北側、最も狭くなった場所に作られてます。
現在は高さ4m、長さ38mの土塁が残ってるのですが・・・とにかく使われている石のデカさに驚きます。10トンを超える岩も使われていて、中には40トンを超えるものもあるんだとか。一体どうやって積み上げたのやら・・・って感じです(汗
また、下城戸は矩折(かねおれ)状になっていて、外から町中を見ることができないようになってるのも特徴ですね。
以下は下城戸を一乗谷の外側から見た状態です。
確かに町がほぼ見えないように作られてるのが分かります。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
一乗谷から少し北に移動した場所に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡史料館があります。
西山光照寺跡、そして越美北線の「一乗谷駅」の近くですね。
資料館では一乗谷と、朝倉氏に関する史料を色々と見ることができます。
資料は基本的に撮影禁止なのですが、一乗谷のジオラマと、朝倉館の復元模型は撮影OKだったので写真を撮らせてもらいました。
以下が一乗谷のジオラマですね。
私は一乗谷の遺跡を回った後でジオラマを見たのですが、先に見ておいた方が全体のイメージができて良かったかな・・・という気がしました。
そしてこちらが朝倉屋敷の復元模型。
館は洛中洛外図に描かれた細川管領邸を参考にし、推定復元されてるそうです。
【感想】時間はかかるけど、見応えは完全に予想以上でした!
というわけで一通り一乗谷を見て回った感想は「思った以上に見どころが多い!」でした。
そして思った以上に時間がかかる!ですね(笑
実は私、一乗谷を完全に侮ってました・・・。朝倉氏自体が義景の時代に信長に速攻で滅ぼされたってイメージしかなかったので(汗
しかしこれほどしっかり当時の遺構が残っているとは思いませんでした。今まで来なかったことを後悔したレベル。
それくらい見ていて飽きない場所ですし、もっと時間かけて見て回りたかったなという感じ。名勝指定の庭園も良いなと思いましたが、そもそも一乗谷全体が遺構ばっかりなので、普通に歩いていても全然飽きません。
そして実際遺跡を訪れ、資料館で朝倉氏の歴史に触れると朝倉氏にも越前守護として名を挙げてきた輝かしい歴史があり、それを成した傑出した人物もやはりいたんだな、と知ることもできました。というか朝倉孝景は完全にヤバいですね!考え方が合理的すぎるところなんかはちょっと信長にも似てるのでは?と思ったり。
そして孝景の8男・朝倉宗滴ですよ。
この人も大概ですよね。3代貞景・4代孝景・5代義景の参謀を務め、80歳近くなっても出陣してたとかちょっと時代的に考えてありえないレベルの超人です。
いや、今の時代で考えても充分化け物かな(汗
まあでも多分隠居できるような状況になく、出陣せざるを得なかったんでしょうね・・・
宗滴が亡くなるまでに孝景・宗滴のような人材が育っていれば朝倉氏の歴史は大きく違っていたんじゃないか?と思わずにいられません。
なのでやっぱり資料館は見ておいた方が良いと思います!
そして一乗谷朝倉氏遺跡を見て回るなら半日くらいはしっかり時間を確保して、ゆっくり観光するくらいがちょうど良いんじゃないかな?って感じですね。1~2時間ですべて見て回るのはかなり厳しいです。
ちなみに一乗谷には山上に一乗谷城があるのですが、ここも一緒に見ようと思うと更に時間がかかります。調べたところによると片道1時間以上かかるらしいので、ガチ登山の用意で望んだ方が良いでしょう。
私は正直そこまでの準備もしていなかったし、時間も無かったので攻城は断念しました(汗
一乗谷観光は公式アプリをインストールしていくとスムーズ
とりあえず一乗谷朝倉氏遺跡は公式アプリ「戦国浪漫 一乗谷」があるので、事前にインストールしておくことをおすすめします(iOS/Android版あり)。
これがあると今遺跡のどの辺を歩いているかが分かりやすいですし、見落としを防ぐことができますので♪
実は私、途中までアプリをインストールせずにうろついてたのでだいぶ時間をロスしました(汗)おまけに回り損ねた場所があることに後で気がつきましたよ・・・
そういうこともアプリをインストールしておけば防げるはずです。
アプリは福井県のHP経由でインストールページにアクセス出来ますのでどうぞ。
もしくはApplestore/Googleplayで直接「一乗谷」と検索すればすぐに見つかります。
まとめ
というわけで一乗谷朝倉氏遺跡についてまとめました。
繰り返しますが一乗谷はマジで見どころが多いです!正直これだけしっかり戦国時代の城下町の遺構が残っている場所というのも珍しいですし。
福井に観光に行ったらぜひ訪れてみると良いですよ♪