こんにちは!ZIGです。
今回は福井県坂井市にある「黒坂備中守景久居館跡(舟寄館)」を訪れたので紹介します。
黒坂備中守は朝倉義景の家臣ですが、実はこの黒坂備中守に明智光秀が仕えていたという話があるんですよね。
舟寄館(舟寄城)について
舟寄館(舟寄城)の築城された正確な時期は不明っぽいです。
ただ、朝倉義景の家臣だった黒坂備中守景久が加賀の一向一揆に対するためにここに居館を構え、坂井郡の東部一帯を治めていたらしいですね。
現在舟寄館跡は工場の敷地となってしまっているため遺構などは全く残っていませんが、周辺には「館」「館ノ前」「館ノ後」といった字名が存在していて、周辺一帯が居館だった模様。
地籍図によると南北75m、東西85mほどの濠跡が確認できているそうで、それなりの規模の居館だったことが分かります。
・・・で、実はこの黒坂備中守景久という方、明智光秀が長く使えた人だったのではないか?と言われてるんですよね。
その根拠となるのは江戸時代前期の軍学者・儒学者である山鹿素行(1622~1685)の「武家事記」の記載です。
山鹿素行の「武家事記」には明智光秀が「元濃州明智の人で朝倉義景家臣黒坂備中守に仕え、その後に細川藤孝に仕え、その後足利義昭の奉公衆になった」という記載があるんですよね。
武家事紀は全58巻になる歴史書・武家故実書。古文書からの引用も多く、記載されている情報は何かしらの文書を参考にしているものが多いとされています。なので光秀に関する記載も何かしらの情報源があった可能性があり、事実だとすれば光秀は朝倉義景ではなく、朝倉義景の家臣・黒坂備中守に仕えていたってことになるわけですね。
そんな話から黒坂備中守景久と舟寄館に興味を持ち、実際に訪れてみた次第です♪
舟寄舘アクセス
先ほど触れたとおり、舟寄館跡は現在「日東シンコー」という工場の敷地になっています。
なので目印はまさにこの工場ですね。遺構は何も残っていませんが、石碑が現在も残されています。
駐車場はなし
工場の敷地内にあるので当然専用の駐車場などはありません。
なので車はどこかに止めて歩いてアクセスですね。
石碑のみが残る舟寄館跡
というわけで舟寄館跡へ行ってきました!
以下の写真は日東シンコーの横にある「舟寄」の交差点です。
この交差点のすぐ近くに舟寄舘の石碑が建っています。
無論工場内なので無断で入ることは出来ませんが、工場のフェンス越しに石碑を確認することが可能です。
以下はフェンスの外から撮った写真の拡大です。
「黒坂備中守景久居館址」の文字が確認できますね。
ここは丸岡町の指定史跡にもなっているそうです。
・・・で、石碑のすぐ近くには供養塔?がありました。
これも黒坂備中守と関係があるっぽいですね。
ちなみに石碑は以下の場所から確認しました。工場の入り口右手ですね。
ネットで調べた感じではこの場所に「黒坂備中守館跡」を示す案内板が存在するはずなのですが、なぜかこの時は案内板が無くなっていました。
外れてしまったんでしょうか??
・・・とまあこんな感じで舟寄舘がここにあった痕跡はこの程度。
当時の姿を想像させるものは何もないのでちょっと拍子抜けですね(汗
「明智光秀が朝倉義景に仕えた」という話には根拠がない
よく「明智光秀は朝倉義景に仕えた」と言われますよね。
1556年に明智城が落城した後、光秀は越前に逃れて朝倉義景に仕えた・・・という話はよく聞きます。ただ、この話って何の根拠もないんですよね。
この話の元になっているのは「明智軍記」ですが、明智軍記は江戸時代になって書かれた軍記物で正確な歴史を記したものではありません。
おそらく戦国時代に書かれたと言われ、朝倉家の興隆と滅亡をまとめた「朝倉始末記」にも明智光秀が朝倉義景に仕えたって話は全く出てこないんですよね。
なのでどちらかと言えば黒坂備中守に仕えたという話の方が信憑性高いのでは?って気がします。
何よりこの舟寄舘、光秀が長く門前に暮らしたと言われる称念寺と500mほどしか離れてません。
「武家事記」や「遊行三十一祖京畿御修行記」などの記載も含めて考えても、称念寺門前に住居を構え、黒坂備中守に長く仕えた・・・というのが光秀の知られざる前半生の一時期だったのではないか?って思っちゃいますね。
まとめ
というわけで舟寄舘を紹介しました!
正直舟寄舘跡は何があるってわけでもないのでここだけを目的として訪れるのはちょっと・・・という感じではあります。
ただ、近くに称念寺があるので併せて訪れてみると良いんじゃないかって感じですね!