こんにちは!ZIGです。
今回は静岡県掛川市にある高天神城跡へ行ってきました。
高天神城といえば武田・徳川の間で激しく奪い合いが行われた場所ですね。武田信玄が落とせず、息子勝頼が攻め落としたことで武田軍の健在を示した場所であり、後年徳川軍に攻め落とされ、武田家(というか勝頼)の力の失墜を明確にしてしまった場所でもあります。
目次
搦手門址(北口駐車場)
高天神城は追手門(南口駐車場)と搦手門(北口駐車場)の二つの入り口があるのですが、今回は北口の搦手門址から高天神城へ。
北口駐車場に車を止め、階段を昇っていきます。が・・・
ここ、思った以上に階段が急です(汗
高天神城は山自体はそれほど高くありません(確か130mくらい)。ただ急斜面になっているので攻めにくかったと何かで読んだ記憶はありましたが、マジでこれはかなりの急斜面。
これは確かに攻めにくかったでしょうね・・・
階段の途中には三日月井戸と呼ばれるスペースがありました。
名前の通り三日月型の・・・井戸?というか池のような感じ。昔からあったものなのかは分かりません。
急な階段を登り切ると、井戸曲輪へ出ます。
井戸曲輪から二の丸へ
井戸曲輪へ出ると一方は本丸、もう一方は二の丸へと道が分かれます。
まずは二の丸へ。
二の丸周辺には袖曲輪跡と本間・丸尾兄弟墓碑がありました。
本間・丸尾兄弟は天正2年の戦いの際に討たれた方だそうです。城を守る徳川方で、二の丸を死守して戦ったといわれてます。穴山梅雪(信君)配下の砲手に撃たれたのだとか。
この辺りを歩いていると、やっぱり人工的に整えられた感じの地形が目に入ります。既に当時の建物は何も存在しませんが、確かに城として使われたのだな・・・という感じ。
高天神社(西の丸)
二の丸を見た後は高天神社へ。
高天神社は高天神城が廃城になった後建てられたものになります。御祭神は高皇産霊命(たかみむすひのみこと)・天菩比命(あめのほひのみこと)・菅原道真公。菅原道真公が祭られてるためか、境内には合格祈願の絵馬がちらほら。
階段を上っていくと、西の丸跡という杭が建てられてました。
つまり元々は西の丸だったってことですね。西の丸は岡部丹波守真幸が守っていた時期があり、丹波曲輪と呼ばれてもいたそうです。
ちなみに岡部丹場守真幸(元信とも言われる)は元今川家の武将で武田家に仕え、天正2年の戦いでは攻める側でしたが、天正9年の戦いでは高天神城主として徳川軍と戦い、壮絶な最期を遂げた方ですね。
馬場平
高天神社の脇を抜けると馬場平へ。
ここからはかなり遠くまで景色が見え、南側は海もきれいに見えました。北側は樹がしっかり生い茂ってしまって何も見えませんでしたが、城として使われていた当時はしっかりこちら側も見通せたのでしょう。
この馬場平には「甚五郎抜け穴」という道があります。別名「犬戻り猿戻り」とも。
ここは天正9年に徳川軍の攻撃で落城した際、敗れた武田方の軍監横田甚五郎尹松(よこたじんごろうただまつ)が脱出した場所。勝頼に落城の模様を報告したという話からこの名が付いてるんだそうです。
攻めるのも大変ですが、抜け出すのも大変だったでしょうね・・・
的場曲輪
馬場平を見た後は井戸曲輪まで戻り、今度は本丸の方へ。
途中に的場曲輪という場所がありました。ここは鉄砲の弾薬を保管していた場所では?と言われてるそうです。
大河内政局石牢
的場曲輪のすぐそばに「大河内政局石牢道入口」を発見。
大河内政局(まさちか)といえば、8年もの間石牢に幽閉されたという方ですね。
天正2年、武田勝頼は高天神城を包囲。1か月近く戦いが続き、城主小笠原長忠は降伏します。城兵も城から逃げていったのですが・・・ここで軍監(軍目付)だった大河内源三郎(政局)は降伏を断固拒否。
源三郎はひとり城に残ります。しかし当然といえば当然、意地でも降参しないその態度に勝頼もブチ切れ、大河内源三郎はそのまま石牢に幽閉されてしまいました。
その後、天正9年に高天神城は徳川が奪還するのですが、その時まで8年にわたり、大河内源三郎は武田に屈しませんでした。徳川軍が城に入り、石牢の中にいたのが大河内源三郎だとわかると家康もびっくり。かなりの恩賞を与えたそうです。
どんな状況に置かれても徳川家の勝利を信じ、待ち続けるというのは半端な精神力じゃないですね・・・
石牢までの道は細く、ちょうど本丸をぐるっと半周したあたりの山の斜面に入口がありました。
入口はふさがれて中に入ることはできませんでしたが、こんな場所に8年も幽閉。
恐ろしくてとても想像できません・・・
本丸跡
石牢から戻って今度こそ本丸へ。
けして広くはありませんが、他の場所と比べると開けたスペースといった感じ。今でも残る土塁が当時の姿を想像させます。
御前曲輪跡
本丸を抜けた先には御前曲輪跡がありました。
小笠原長忠夫妻に変身できるようです(笑
そしてその後ろには、何やら歴史観にそぐわない妙な建物が・・・
なんか、中に鉄骨はいってない?これ・・・
・・・と思って後で調べたら、これは昭和に入ってから作られた2層の模擬天守なんだそうです。落雷で焼失したという話で、現在は土台部分だけのこってるんだとか。
そういえば、この御前曲輪のあたりからは周りの景色が良く見え、遠くに富士山も見えました。
きっと高天神城にいた人たちも同じ景色を見ていたんじゃないかな。
そして近くに元天神社という小さな社がありました。
三の丸跡
元天神社のすぐ横に下へと下っていく道があり、ここから三の丸へ。
御前曲輪から三の丸への道もかなり急角度。移動も大変だったでしょうねー。
三の丸からも結構景色がきれいに見えました。
こうしてみると思ったよりもこの高天神城が高台にあるのが分かります。
追手門
三の丸まで見て回り、一旦搦手門へ。せっかくなので追手門側も見ていこうと思い、車で追手門(南口駐車場)へ移動しました。
追手門側は搦手門と比べて案内が分かりにくく、ちょっと入口を見つけるのにウロウロ。
小さいながら駐車場があるので、車を止めて追手門へ。
追手門は大きなスギが残ってますが、当時の遺構は何も残っていないようでした。
近くに到着曲輪という小さなスペースがあった程度。
高天神城跡を一通り回ってみて
はい、とにかくもう全体的に急斜面(笑
見に行くなら歩きやすい靴を履いていくことをおすすめします。
高天神城は1時間ほどあれば全部見て回れるくらいの規模で、あまり規模の大きな城ではなかったのが実際歩いてみて分かりました。しかし立地がやっぱり厄介だったんでしょうね。
とにかく急斜面ばかりで、とてもじゃないけどこの斜面は攻められないでしょ・・・という感じ。
高天神城アクセス
車の場合は東名高速道路掛川IC下車約15分
公共の交通機関を利用する場合はJR掛川駅から「しずてつジャストラインバス」利用、大坂線土方(ひじかた)下車徒歩約15分