明智城址 | 明智光秀生誕地といわれる明智一族の山城(岐阜県可児市)

明智城趾

こんにちは!ZIGです。

今回は岐阜県可児市にある「明智城趾」に行ってきました。

明智城といえば明智光秀が生まれた場所と言われている場所のひとつですね。

明智城について

明智城は別名「長山城」「明智長山城」とも呼ばれます。

その始まりは康永元年(1342年)で、明智次郎長山下野守頼兼が築城(明智城の石碑から引用)。頼兼は美濃源氏の流れを組む土岐氏の人で、「明智」と改名してこの地で城を築いたそうです。

その後弘治2年(1556年)に斉藤義龍に攻め落とされるまでの215年間、明智城は明智氏の本拠でした。

ちなみに明智光秀はこの城で生まれたといわれていて、最後の城主でもあります。落城の際に落ち延びたと言われてますね。その後光秀は越前へ逃れたとされています。

 

明智城へのアクセス

明智城
〒509-0213
岐阜県可児市瀬田5丁目1238-3

明智城は車でアクセスするなら東海環状自動車道「可児御嵩IC」が最寄り。インターから5分程度で行ける場所にあります。

電車なら最寄り駅は名鉄広見線「明智駅」ですね。駅から南へ1Km程度歩くと明智城に到着します。なので徒歩15分と行ったところですね。

 

明智城趾は意外と駐車場も広い

明智城趾

明智城趾には比較的大きな駐車場が整備されてます。

上記の写真が駐車場の写真。意外としっかりした駐車場があるので車で来ても安心ですね♪

ただここにたどり着くまでの道がかなり細いので、そちらの方が要注意。車のすれ違いにもちょっと困るくらいの道幅でした。

ちなみにこの駐車場は大手口のすぐ横にあります。そして奥に見える「明智城址公園」と看板が付いているのが大手曲輪。大手曲輪はしっかり整地されて展望台になっています。

 

明智城趾

というわけで明智城に行ってきました!

 

駐車場脇には明智城址公園散策マップもありました。

明智城趾

これ見て思ったのですが割と広いですね明智城。

地図をよく見ると、明智城大手口の東には明智一族の墓がある天竜寺も掲載されてますね。

ここものちほど寄る予定です。

 

そして駐車場にはいくつか「明智光秀公生誕地」と書かれたのぼりが立っていました。

明智城趾

結構新しくて綺麗なのぼりだったので、割と最近設置されたのかな?という印象です。

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の決定後に設置されたのかもしれませんね。

明智城に行ったのは2019年5月でした。

 

大手口

明智城趾

というわけで駐車場を出て大手口へ。

写真を見てもらうと分かる通り、本当に駐車場の真横が入り口です。

近くて良いですね♪

 

ちなみに大手口の道は「桔梗坂」と名付けられてるみたいです。

明智城趾

これはまあ・・・多分後世になってけられた名前でしょうね。

石碑にはしっかり桔梗紋が彫られてました。

 

 

桔梗坂を進んでいくと、途中にも看板がありました。

明智城趾看板

こちらは明智城の立体的なマップと、その歴史が書かれてますね。

なぜか落城が1565年になってますけど・・・1556年の間違いのような気が(汗

 

 

桔梗坂はしっかり石畳が整備されてました。

明智城趾

鬱蒼と茂る森の中へと入っていきます。

ちなみにこの道の途中に左折できる場所があり、そちらへ行くと大手曲輪の展望台に行けます。

この時も行ったのですが何故か写真を撮り忘れてしまいました(汗

 

大手門(大手口跡)

明智城趾大手口跡

少し歩くと大手門が見えてきます。もちろんこれは復元。

大手口跡の石碑もありますね。

 

 

大手門をくぐり、ここからまたしばらく上りが続きます。

明智城趾

坂は意外と急です。

石畳なので歩きにくくはありませんが、雨上がりは滑りやすいかもしれません。登るなら晴れの日が良いですね。

 

 

途中にこんな看板がありました。

明智城趾

看板もだいぶ年季が入ってますねー。多分設置されたのも結構前なんでしょう。

 

中ノ丸跡(中ノ曲輪)

明智城趾

5分ほど歩き続けると開けた場所に出ました。

・・・と、横を見ると林の方へ向かう道がひとつ。まずはこっちに向かってみます。

 

 

すぐにちょっと開けた場所に出ました。

明智城趾

 

 

中ノ丸跡の石碑発見。

明智城趾

最初に見た地図だと中の曲輪(二の曲輪)と書かれてたスペースですね。

あまり平に整地された感じでもなく、地形をそのまま使っていたのかな?という感じです。

土塁はちゃんと残っていて、曲輪っぽい印象でした。

 

二の丸跡(二の丸曲輪)

明智城趾二の丸跡

中の丸跡への道を戻り、次は二の丸へ。

二の丸は結構広いスペースがありました。

 

 

ここも石碑が建っています。

明智城趾二の丸跡

 

 

そういえば二の丸跡にはこんなのぼりがいくつも立ってました。

明智城趾

大分キャラ変わってますね光秀公・・・

てか茶髪になってるし(笑

 

 

休憩スペースにはベンチがあり、パンフレット置き場があります。

明智城趾

・・・が、この時はパンフレットは1枚もありませんでした(笑

来るタイミングによってはパンフレットも置いてあるかもしれません。

 

ふとその下を見ると、交通量調査に使うカウンターが置いてありました。

明智城趾

登城した人の人数を数えてるみたいですね。せっかくなので押しておきます(笑

 

ちなみに私が押したタイミングでは2799でした(2019年5月)。

明智城趾

「麒麟がくる」が始まるとカウンターの数も一気に増えるかもですねー。

ただ、カウンターが10000になると0に戻ってしまうのでは?とふと思ったり(笑

一体どれくらいの人が登城するんでしょう・・・

 

七ツ塚

明智城趾七ツ塚

二の丸の近くに七ツ塚があります。

これは弘治2年(1556年)、明智城が斉藤義龍に攻められた際、討たれた明智軍の7武将を葬った塚だそうです。7武将の名前については何も書かれていませんでした。

ただ、あとでウィキペディアを調べたら以下の記載を発見。

弘治2年(1556年)9月19日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安(宗宿)は弟光久と一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870余人を集めて籠城したという

参考:wikipedia(明智城)

光安と光久、そして7人の名前があるので、この9名の中に7武将が含まれているのかもしれません。

 

 

少し離れた場所から見ると等間隔で塚が配置されているのが分かりますね。

明智城趾

 

 

馬場跡

馬場跡

七ツ塚の近く、本丸跡の南側に馬場跡がありました。

ここは道沿いに石碑があるだけですね。

 

逆茂木

明智城趾

逆茂木。2009年に作ったものみたいです。

明智氏が住んでいた当時もこういう逆茂木が作られてたかもしれませんねー。

 

馬防柵

明智城趾

馬防柵。これも2009年に作ったものみたいですね。

 

本丸の背後を守るように、結構な長さがありました。

明智城趾

こちら側は結構な急斜面だったのですが、こんなところを馬が昇って来たのでしょうか・・・

 

本丸跡

明智城趾本丸跡

二の丸から本丸跡へ。

上の写真は本丸跡の石碑です。

 

本丸だけあってそこそこ広いスペースがありました。

明智城趾本丸跡

天守はなかったと言われてますが、これだけのスペースですから複数の建築物があったのかも知れません。

 

こんな石碑もありました。

明智城趾本丸跡

明智光秀は11代目当主に当たるという事をここで初めて知りました。

 

「明智城趾記」という看板もありました。昭和59年に建てられたものみたいです。

明智城趾

「直情径行武断一辺倒」とか信長すげぇ言われようですね・・・

しかし性格的には全然違ったのかなーって気はしますよね光秀と信長。性格の不一致だけで本能寺の変が起きたとは思えませんが(汗

そして非業の最後を「痛恨の極み」と書いているところから、やはりこの土地で明智光秀は慕われているんだな・・・と感じます。

 

展望デッキ

明智城趾展望デッキ

本丸跡の隅には展望デッキが作られてます。

 

意外としっかりした作りでした。

明智城趾展望デッキ

平成21年に整備されたということで、割と最近作られたんですね。

 

なかなかの景色♪

明智城趾展望デッキ

本丸は標高175mということなので、天気が良ければ結構遠くまで見渡せます。

 

 

西出丸曲輪

明智城趾西出丸

今度は本丸跡から西出丸跡へ。

歩いて行くと少し盛り上がった高台のようなスペースが見えてきます。ここが西出丸かな?

 

 

・・・と思ったら石碑が立ってました。やっぱりここが西出丸のようです。

明智城趾西出丸

 

 

上まで登ってみたらこんなものがありました。

明智城趾西出丸

ここはもしかして何か遺構のようなものがあったんでしょうか?

ただの目印かもしれないけど(笑

 

 

西出丸からも結構遠くが見渡せました。

明智城趾西出丸

 

 

水の手曲輪への道は崩落で通行止め

明智城趾

ふたたび本丸跡へ戻り、西大手曲輪・水の手曲輪の方へ・・・

と思ったら、なんと水の手曲輪への通路は崩落して通行止めとなってました。

 

 

よく見たら看板にも通行止めの文字が(汗

明智城趾

こうやって看板にも書いてあるあたり、結構前から通行止めになってるのかもしれません。

なので一旦大手口まで戻ることにしました。

 

 

一旦駐車場まで戻り、西大手口(搦手口)の方から西大手曲輪へ向かうことに。

 

 

明智城の大手口と西大手口の間には光蓮寺というお寺があります。

明智城趾

後ろに見える山が明智城ですね。

ちょうど光蓮寺を「コの字」のように囲む形になってるようです。

 

 

光蓮寺を過ぎて西大手曲輪と思しき森に向かっていくと・・・

明智城趾

 

 

ありました西大手口。

明智城趾

こちらの道はあまり整地されておらず、道も細いです。

 

 

看板もえらく煤けてしまってますね。

明智城趾

 

 

搦手門跡

明智城趾

というわけで西大手口(搦手口)を登っていきます。

大手口ほどの傾斜はありませんが、獣道のようになっていてちょっと歩きにくい・・・

 

 

少し歩くと搦手門跡の石碑がありました。

明智城趾搦手門跡

ここもハッキリと分かる遺構のようなものはありません。

 

六親眷属幽魂塔(西大手曲輪)

明智城趾

搦手門跡を過ぎると多少道が広くなりました。

 

少し上ったところで分かれ道発見。ここが西大手曲輪への通路ですね。

明智城趾

 

 

登っていくとすぐに開けたスペースに出ました。

明智城趾

奥に小さな祠が見えます。

 

これが六親眷属幽魂塔ですね。

明智城趾

 

 

石碑も建っていました。

明智城趾

六親眷属幽魂塔はおそらく明智城主一門を慰霊するためのもの。昭和48年まで発見すらされていなかったそうです。

これは領民が密かに明智一族を慰霊していたため、とのこと。明智光秀が「逆臣」となってしまったために公に慰霊は出来なかったということですね。確かにバレたらどうなるかも分かったもんじゃありません。

それだけ明智家の人々が領民には慕われていたという事でしょう。

 

水ノ手曲輪・台所曲輪

明智城趾

西大手曲輪から本丸の方へ向かっていくと、道は更に細くなっていきます。

場所によっては草が生えすぎて道かどうかも分からない(汗

やっぱり崩落後まったく整備がされてないんでしょうね。

 

 

おそらく水ノ手曲輪と思われる場所に橋がありました。

明智城趾

 

 

ここで崩落のため通行止め。これ以上は進めませんでした。

明智城趾

 

 

看板を見ると、やはりこのあたりが水ノ手曲輪のようです。

明智城趾

ただ、草がかなり生えていて地形はよく分かりませんでした。

 

 

おそらくこちらが台所曲輪。

明智城趾

土塁と言うより天然の地形をそのまま使ってる感じでしょうか。

 

何にしてもこれ以上は進めないので、これで明智城探索は終了。また大手口へと戻ります。

 

 

明智氏歴代の墓所がある天龍寺

明智城趾

というわけで今度は天龍寺へ!

天龍寺は駐車場を挟んで明智城と反対側にあります。明智氏一族の墓所があるということなので、こちらも寄っていきます。

 

 

歩いて行くとすぐに入り口がありました。

天龍寺

 

 

入り口からまっすぐ進んでいくと駐車場があり、明智家一族の墓所はその駐車場内にあります。

天龍寺は入り口右手側。前を通り抜けて駐車場へ。

天龍寺

 

 

明智氏歴代の墓所。

天龍寺

手を合せて来ました。

 

まとめ

というわけで明智城趾および天龍寺を巡ってみました!

両方合せて約1時間30分といったところですね。ただ割とのんびり見て回りましたし、搦手口側に行かなければ1時間もかからないかな?という感じでした。

明智光秀の生誕地はここで確定しているわけではありませんが、ここに明智光秀がいたかもしれない・・・と考えると感慨深いものがありますね。

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