こんにちは!ZIGです。
今回は兵庫県丹波市篠山にある八上城跡を訪れたので紹介します!
八上城は赤井直正と並び丹波の有力国人として知られる波多野秀治の居城ですね。後に明智光秀の丹波攻めによって落城しますが、八上城は中世城郭としての姿を今に残しています。
目次
八上城について
八上城は高城山(標高約460m)とその西側に位置する法光寺山(標高340m)に位置する山城で、室町時代から戦国時代にかけて丹波の有力国人・波多野氏が本拠地とした城になります。八上城は本城と支城が城下を挟んで配置されるなど、中世山城の典型的な姿を残していると言われていて、史跡としての価値も高いみたいですね。
弘治3年(1557年)、波多野氏は三好長慶や松永久秀らと対立して一時は八上城を攻め落とされてしまいます。しかし永禄9年(1566年)に波多野秀治が奪還に成功し、その後は再び波多野氏の居城となりました。
その後丹波には織田信長の命を受けた明智光秀が侵攻します。波多野氏も対抗しますが、天正7年(1579年)1年にわたる籠城の末に八上城は落城。波多野氏は滅亡することに。
以後も慶長14年(1609年)まで八上城は使用されますが、篠山城が築城されたことによって廃城となりました。
ちなみに八上城といえば明智光秀の母が磔にされたという「はりつけ松」の話がありますが、あれは後世の創作だと言われてますね。しかし八上城跡には「はりつけ松跡」が残されています。
一体いつの頃から存在しているのやら・・・(汗
八上城アクセス
八上城へ公共の交通機関を使ってアクセスする場合の最寄り駅はJR福知山線「篠山口駅」ですね。駅からバスに乗って「八上本町」で下車、徒歩3分で春日神社登山道の入り口に到着します。
車の場合は舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口IC」が最寄りのインター。ここから7kmほど、15分ほどで八上城周辺へたどり着けます。
専用の駐車場あり
八上城跡には専用の駐車場が用意されています。春日神社登山口の近くですね。
なので車でアクセスする場合は春日神社を目的地にしてアクセスするとスムーズです。
駐車場は春日神社の目の前にあり、20代くらいは駐車できるスペースがありました。
ちなみに料金も無料です。
八上城跡
というわけで八上城跡に行ってみました!
春日神社前の駐車場に車を止め、春日神社境内から山頂を目指します。
春日神社登山口から山頂へ
以下は春日神社の鳥居ですね。
大分古い鳥居だな、って感じです。
鳥居を抜けて進んでいくと、春日神社が見えてくるのですが・・・
なんか完全に朽ち果てちゃってますね(汗
社殿もボロボロで、床も抜けちゃってる箇所があるようでした。
あまり手入れされていないというか、完全に廃墟といった感じですね・・・(汗
まあそれはさておき、山頂を目指しましょう。
登山口には看板が立っているのですぐ分かります。
頂上までは約1km。45分の道のりです。
ちなみに看板の下にリーフレットがあり、八上城には登山口が3つあることが分かりました。
ただ、そのうちひとつは通行止めになってるみたいですね。落石や土砂崩れがあったのかもしれません。
とりあえず春日神社登山道はしっかり階段が整備されてました。
なので足を取られる心配はないですね。
ただ、ひたすら階段が続くのでこれはこれで結構キツい(汗
主膳屋敷跡
しばらく登っていくと「主膳屋敷跡」の看板を見つけました。
ここは波多野氏が滅んだあと、城主が使っていた屋敷があったエリアらしいです。
言われてみればそれなりに平坦なスペースがあるように見えました。
あとで調べて分かったのですが、先ほどの春日神社があったあたりも「主膳屋敷跡」と伝わっているそうです。
なので登山口周辺のエリアには複数の屋敷が存在していたのかもしれません。
近くには「八上城主前田主膳供養塔」と書かれた石碑がありました。
八上城は前田玄以の子・前田茂勝が城主を務めていた時期(1602年~1608年)があるので、おそらく前田茂勝のことですね。
ちなみに前田茂勝はあまり良い統治をしなかったらしく、改易されてしまっています。
主膳屋敷跡を過ぎると再び階段が延々と続きます。
傾斜も結構あるので登るのは一苦労。
八上城の登山は予想以上にハードでした(汗
伝鴻の巣跡
大分登って来たな・・・と思った頃に「伝鴻の巣跡」の看板がありました。
うーん、かなり頑張ったのにまだ250mしか登ってないのか・・・
傾斜が思いのほかキツいのでこのあたりで既にかなりの疲労感が(汗
まあ言ってても仕方ないので写真を撮ってみました。
確かにちょっと平坦なスペースがありますね。
西側からの敵に備えての曲輪、つまり城下町がある側の防御を想定した曲輪みたいです。
・・・で、伝鴻ノ巣跡を過ぎるとまたひたすら上り階段です(汗
階段が整備されているのはいいんだけど、一段一段が結構堪えますね・・・(泣
伝下の茶屋丸跡
伝鴻ノ巣跡を少し登ると「伝下の茶屋丸」がありました。
ここも西からの敵に備えた陣地だそうです。
西側をかなり警戒してますねー。というか他の方位からは攻め難い造りをしてるのかもしれません。
伝下の茶屋丸は鴻の巣跡よりも広いスペースがあるように感じました。
で、景色もよく見えますね。
おそらく攻めてくる敵もよく見えたでしょう。
しかしすでにこの時点で結構いい景色。まだ3分の1も登ってないのですが、八上城の主郭部はかなり険しいところにあるみたいです・・・(汗
伝中の壇跡
伝下の茶屋丸を少し登ると「伝中の壇」がありました。
このあたりは曲輪が連なってるみたいですね。
ただ中の壇跡はあまり広いスペースはありませんでした。
上下の曲輪を繋ぐようなエリアだったのかもしれませんね。
あるいは下の茶屋丸と上の茶屋丸をつなぐ細長いエリア全体が中の壇なのかもしれません。
そう考えると結構広い曲輪ですね。
はい、そして中の壇を過ぎるとまた上り階段です(汗
これ登ってて思いましたけど、よくこれだけしっかり階段整備したもんですよね・・・
その労力もすさまじい気がします(汗
伝上の茶屋丸跡
1~2分ほど歩くと今度は「伝上の茶屋丸跡」に出ました。
下の茶屋丸~中の壇~上の茶屋丸と曲輪が連なってるんですね。
やはりここも西からの敵に備えるのが目的とのこと。非常に厳重に西側を警戒してます。
上の茶屋丸は下の茶屋丸より少し狭いかな?という印象でした。
遺構らしきものは何もないですね。
そして再び上り階段地獄です(泣
これもしかして、山頂まで続いてるんでしょうか・・・
右衛門丸跡
伝上の茶屋丸跡から10分ほど階段を上り続けると、急に景色が開けます。
山頂エリアはしっかり伐採されて見晴らしが良くなってました。
どうやら主郭部に到着したみたいです。やっぱり山頂部まで階段は続いてました・・・(汗
で、階段を登り切ったところにあったのが「右衛門丸跡」の看板でした。
看板の後ろに石垣が残ってますね。
主郭部分は石垣も作られてたっぽいです。
右衛門丸はそれほど広いスペースではありませんでしたが、城主の屋敷跡とのこと。
主郭エリアの端に城主の屋敷があるというのはなんだか不思議な感じがしますね。
三の丸跡
右衛門丸からは三の丸が良く見えます。
ガッツリ伐採されてるので曲輪の形状が良くわかりますね。
しかしかなり豪快に伐採してますよねこれ(笑
三の丸へ向かう階段もしっかり用意されてました。
階段を昇っていくと・・・
こちらが三の丸跡ですね。
ここは南側の谷間に対する重要防御拠点とのこと。
しっかり石垣も造られてたみたいですね。
三の丸はかなり広さもありました。
そしてしっかり平らに整地されてますね。結構大きな建物が存在してたのかもしれません。
二の丸跡
三の丸からは二の丸が良く見えます。
こちらもしっかり伐採されてるので曲輪の形状が良くわかりますねー。
明らかに人工的な形に整えられてる感じ。
二の丸へもしっかり階段が作られてました(笑
いや、ホントこの階段整備するのにはどれだけの手間がかかったのかと思わされます。
こちらが二の丸ですね。
看板の記載を見ると、このあたりで瓦なども見つかってるみたいですね。
また、看板の足元には門の礎石と思われる石がありました。
ちょっと苔や草で分かりにくいですが、石の中央にはしっかり丸いくぼみが確認できます。
二の丸は岡田丸という曲輪とつながってるらしく、どこまでが二の丸で、どこからが岡田丸なのかがはっきりとはしませんでした。
ただ、二の丸と岡田丸で本丸をぐるりと囲むような縄張りになっていて、併せればかなり広いスペースですね。
ここもしっかり整地されてる感じで、複数の建物が存在していたんじゃないかと思われます。
本丸跡
そしていよいよ本丸ですね!
三の丸~二の丸辺りは容赦なく木が伐採されてましたが、本丸周辺の木はそのまま残されていました。しかし本丸の形は木の間からでもよく確認できますねー。
登ってみると本丸跡を表す看板がありました。
ここには望楼があったみたいです。
確かにここなら狼煙を上げて支城へ号令を行う・・・なんて場合にも最適ですね。
本丸の中心には波多野秀治公の慰霊碑がありました。
「表忠碑」と彫られてますが、意味はほぼ同じだと思います。
波多野秀治は赤井直正と共に明智光秀を苦しめた丹波の国人衆。最後は籠城の果てに捕えられて安土城に送られ、兄弟と共に処刑されたことが知られてますね。
とりあえずこの石碑、驚くほどデカいです(汗
こんな険しい山の山頂によくこんな石碑を建てたな・・・という感じ。山頂までの階段にしても石碑にしても、八上城の整備にはかなり力が入ってる感じがしました。
そしてこちらが本丸からの景色です。
いやぁ・・・ここは本当に絶景。
天気が良ければ最高の景色ですし、多分タイミングによっては雲海もみれるんじゃないでしょうか。城下の町も一望できたでしょうね。
ちなみに波多野秀治が1年にわたって籠城した際、明智光秀は八上城の周りに無数の城や砦を気付いて城を取り囲んだと言われてます。
ここからはそんな包囲陣も見えてたのかもしれません・・・
岡田丸跡
本丸を見た後は岡田丸跡へ。
岡田丸は重臣の岡田某の舘があった場所だと言われれるそうです。
北から東にかけての防御の役割も兼ねていた模様。
いやしかし、岡田丸はかなり広いです。
おそらく三の丸や二の丸よりも広いスペースがありますね。
岡田氏は相当な重臣だったって事でしょうか・・・
ちなみに岡田丸からは二の丸と三の丸が見えます。
この明らかに人工的な地形がいかにも城っぽくて良いですね♪
主郭部をぐるっと回ってみて思いましたが、八上城ってかなりしっかり整備された城だったんじゃないでしょうか?その分攻めるのも大変だったとすれば、光秀が包囲戦を行ったのも頷けます。
そういえば本丸の岡田丸側には石垣がしっかり残ってました。
苔むした感じがまた良いですねー。
東側(二の丸の反対側)に回ってみると、こちらにも石垣がありました。
これだけ遺構が残ってると見ごたえがありますね♪
伝蔵屋敷
主郭部を一回り見た後、水場があるという南西側の道へ。
こちらもかなりの傾斜でした。
少し下ると伝蔵屋敷と言う場所に出ます。
ここも何かしらの建物があったんでしょうね。
あまり広くはありませんが、平坦なスペースがありました。
伝池東番所
伝蔵屋敷のすぐ近くには「伝池東番所」がありました。
名前の通り、水場を守るための建物があったのだと思われます。
広さはそれほどでもない感じ。
大堅堀
池東番所を過ぎると分かれ道になってました。
山頂に戻っても仕方ないので、野々垣コースでいいのか?
と思い野々垣コースの方へ向かってみると・・・
一気に下る急斜面になってました。
ここは階段もないんだな・・・
と思っていると、急斜面を降りたところに看板が立っているのが見えました。
降りて確認すると「大堅掘」の文字が。
どうも先ほどの急斜面が大堅掘だったみたいですね。
階段が無かったことにも納得です(笑
朝路池跡
大堅掘のすぐ近くに「朝路池跡」がありました。
ま、要するに水場ですね。
八上城落城の際に朝路姫が身投げしたことから朝路池という名前で呼ばれてるそうです。落城した城の井戸にはこういう話がよく残されてますね。しかし敵の手にかかるよりは・・・と自ら命を絶った人は確かに少なくなかったでしょう。
とりあえずこの井戸、かなり大きいです。
山城でこれだけ大きな井戸はあまり見たことがないのでは?という大きさ。
半分ほど崩れてしまってますが、石積みも残ってますね。
深さ自体は底がすぐ見える程度しかありませんでした。年月の経過で埋まってしまったのかも?
ただ、雨が降った形跡もないのに水があったので、今も水が湧いているのかもしれません。
朝路池のすぐ横には「池東下の番所」という看板がありました。
多分水場を守る役割もあったんでしょうね。
・・・と水場周辺を確認したところで主だった曲輪は確認できたので、これで戻ることに。
ここからは一旦山頂まで戻り、来た道を引き返して春日神社の登山口まで戻りました。
はりつけ松跡どこいった?
・・・で、登山口まで戻ったところでふと気づきました。
あれ、はりつけ松跡は結局どこにもなかったぞ・・・??
そう思って調べてみたら、どうもはりつけ松跡は通行止めになっている「藤木坂コース」にあるらしいことが分かりました。
ということははりつけ松跡は見れないのか・・・
まあ実際松が残ってるわけでもなし、そもそも創作で実話でもないわけなので良いんですけどね(笑
とりあえず通行止めが解除されるまでは見れないっぽいです。
まとめ
というわけで八上城を紹介しました!
八上城、かなり見ごたえのある山城なので行って損はありません。ただ結構険しい山なので登るの大変です(汗
なのでそれなりの準備をして、時間的にも1時間半~2時間ほどは見て臨んだ方が良いですね。