こんにちは!ZIGです。
今回は福井県坂井市にある「称念寺」に行って来たので紹介します。
称念寺はかつて明智光秀が門前で寺子屋を営んでいた・・・という話もある寺院。明智光秀ゆかりの地を巡る中で訪れてみました。
目次
称念寺について
称念寺は古くは「長崎道場」とも呼ばれ、養老5年(721年)に泰澄大師が創建したと言われています。
「長崎」は地名で、現在の称念寺の住所も「丸岡町長崎」ですね。
その後西応3年(1290年)に時宗の道場となった記録が残っているそうです。
室町時代・安土桃山時代・江戸時代と時の権力者の保護を受けた称念寺には「称念寺所蔵勅書・綸旨」「朝倉系図」等の文書が残っているほか、新田義貞公の墓所があることが知られてますね。義貞公が称念寺に手厚く葬られたという話は太平記にも出てきます。
また明智光秀が美濃から逃れた後、浪人時代に称念寺の門前で寺子屋を建てて生活していたという話もあります。その当時の話を聞いた松尾芭蕉が詩を残した事も知られてますね。
称念寺のアクセス
称念寺は現存天守で知られる丸岡城の割と近くに位置しています。
丸岡城からだと南西に3km程の場所にあり、車で7分ほど。
電車の最寄り駅はJR春江駅ですが、3~4kmの距離があるので歩くと40~50分ほどはかかります。タクシーで移動すれば10分程度ですね。
車でアクセスする場合は北陸自動車道「丸岡IC」から県道38号線を経由して6分ほどで到着します。
称念寺の駐車場について
称念寺は山門の反対側に墓地があり、墓地の隣に駐車場がありました。
なので車で訪れた場合はこちらを利用させて頂くとよいと思います。
称念寺山門
というわけで称念寺に行ってきました!
車を駐車場に止めて山門へ。山門は方角で言うと西側にあります。
こちらが山門です、が・・・
あれ?閉まってますね・・・(汗
と思ったら、どうもこの時は老朽化と強風で山門が傾いてしまったらしく、山門を閉じているということでした。
なので横にある子扉から境内へ。
称念寺境内
境内へ入ると正面に本堂が見えました。
山門にもありましたが、「明智光秀公と娘お玉(ガラシャ)ゆかりの寺」と書かれたのぼりも目に入りますね。
こちらが本堂。
称念寺は昭和23年の福井地震で一度倒壊してしまったそうなので、現在の本堂はその後建てられたものだと思われます。
近くで見ても「綺麗な本堂だな」という印象を受けました。
そして本堂にはしっかりのぼりが張り付いてました(笑
「大河ドラマ『麒麟がくる』放送」の文字が見えますね(笑
訪れたのが2019年7月だったので、やはりドラマ放送に向けての宣伝には力を入れてるみたいです。
そういえば本堂の前に来たとき住職さんがいて、少し話を聞くことが出来ました。
光秀が寺子屋を建てて生活していたのは現在の山門前ではないらしいですね。
称念寺は江戸時代までは北国街道沿いまで敷地があり、山門も北国街道に面していたとのこと。なので光秀が建てたと言われる寺子屋はその周辺、つまり北国街道沿いだったと考えられているみたいです。
てっきり今の山門前なんだと勘違いしてました(汗
ちなみに北国街道は現在の称念寺山門を出てしばらくまっすぐ歩き、突き当たる辺りを通っていたという話でした。
松尾芭蕉句碑
本堂の左手に松尾芭蕉句碑があります。
『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』
これは光秀の妻・煕子のことを詠んだ句ですね。
光秀がお金に困っていたとき、煕子が自分の髪を売って助けた話は有名ですが、この話は光秀が越前に居た頃の話だと言われています。
称念寺の門前で寺子屋を営んでいた光秀ですが、生活は楽ではありませんでした。そして士官の機会もなかなかありません。
そんな時に朝倉家の家臣と連歌会を催すチャンスが訪れますが、光秀にはそのための資金がありませんでした。その時に資金を用意したのが煕子だったわけです。そのおかげで連歌会は成功し、光秀は朝倉家に仕官がかなうのでした。
光秀は煕子が自慢の黒髪を売って資金を用意してくれたことを知り、どんな困難があっても必ずや天下を取ると誓ったのでした・・・
・・・と、最後の部分はホントかどうか分かりませんが(笑
そういう話が残っていて、その話を後に聞いた松尾芭蕉が詩にしたわけですね。
句碑は2つあって、新しい物と古い物が並んでるようでした。
こちらは新しい方ですね。
隣の石碑にも「月さびよ」という文字が読み取れます。
ただ、こちらは達筆すぎて後半はハッキリ読めませんでした(汗
新田義貞公墓所
称念寺境内には新田義貞公墓所もあります。
上の写真の門の奥に五輪の石塔が建っていて、実際に現地に行けば石塔も目にすることが出来ます。
ただ、門内に入って良いのかどうか分からなかったので写真は門のみになりました(汗
現在建っている石塔は天保8年(1837年)新田義貞公500回忌に福井藩主・松平宗矩が建てたものだそうです。
称念寺に残る言い伝えと「遊行三十一祖京畿御修行記」に登場する光秀
称念寺に残る言い伝えでは明智光秀は母の於牧の方と共に幼い頃、称念寺の末寺・西福庵に身を寄せていた時期があるそうです。
於牧の方は美濃国明智城城主・明智光綱の妻となり、光秀を生みますがやがて光綱は亡くなってしまいます。その後光綱の母・是空印との関係が良好ではなかった於牧の方は離縁されてしまうことに。そのとき於牧の方が頼ったのが西福庵でした。
西福庵は於牧の方の腰元「竹川」という人の叔母が庵主だったそうです。その縁を頼ったわけですね。
西福庵にいた当時、光秀は称念寺の薗阿上人からも教えを受けたそうです。
その後、光秀は是空印が亡くなったことで明智城に戻ることが出来、明智城主となりました。
そうした幼い頃の経緯があったために、美濃から追われた光秀は称念寺を頼って越前に落ち延びた・・・というわけですね。
正直この話が史実かどうかはハッキリしませんし、そもそも光秀が浪人時代に越前に長く住んでいたという話も称念寺に残る言い伝えや、「明智軍記」のような軍記物でしか確認が出来ません。
しかし、「遊行三十一祖京畿御修行記」という史料で確かに光秀は越前にいたと考えられるようになったそうです。
「遊行三十一祖京畿御修行記」は時宗の総本山・遊行寺の31代住職・同念上人が天正6年7月から天正8年3月までの間に東海~関西地方を遊行した際の記録が記されたもの。この史料の天正8年正月14日の記録に光秀が登場します。
同念上人は遊行の安全確保のため、僧をひとり坂本城に派遣します。その時光秀がかつて称念寺の門前に長く住んでいた事を懐かしみ、旧情をあたためたいとその僧を坂本城に引き留めたのだそうです。
この史料の記述が嘘でなければ、光秀は実際に称念寺門前で長く暮らしていたって事になります。
というか敢えてこんな嘘を書く理由もなさそうですし、信憑性は高いのでは!?
って感じですね。
まとめ
というわけで称念寺を紹介しました!
実は私自身、光秀が越前に長く暮らしていた・・・という話は明智軍記の話くらいしか知らず、創作なんだとばっかり思ってました。しかし実際に光秀が称念寺周辺に住んでいたっぽい史料も見つかってるんですねー。
知らない話を聞くことも出来ましたし、現地に来た甲斐もありました。
称念寺は明智神社や一乗谷からは少し離れてますが、福井県内の明智光秀ゆかりの地をめぐるなら要チェックですよ!