聖衆来迎寺 | 比叡山焼討ちを免れた天台宗の寺院(滋賀県大津市)

聖衆来迎寺

こんにちは!ZIGです。

今回は滋賀県大津市にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)を訪れたので紹介します。

聖衆来迎寺は比叡山の近くに建つ天台宗の寺院。この寺院は織田信長の比叡山焼討ちの際、とある理由で被害を免れました。そのため多くの寺宝が現代に残っていて「比叡山の正倉院」なんて異名もあるんですよね。

聖衆来迎寺について

聖衆来迎寺は延暦9年(790年)に伝教大師(最澄)が建てた地蔵教院が前身で、その後長保3年(1001年)に恵心僧都源信が念仏道場として再興し、現在の寺号となったと言われています。

なので結構歴史のある寺院ですね。

聖衆来迎寺は比叡山からも近く、比叡山との関係も深いと言われています。なので元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちの際、被害を受けておかしくなかったのですが・・・

実は周辺の寺院や坂本の町が焼かれたにも関わらず、聖衆来迎寺は焼き討ちをまぬがれました。

 

その理由は信長の家臣、森可成の墓がこの寺院にあったからだと言われてますね。

 

森可成は森乱丸の父親で、信長の信頼も厚い武将でした。1570年には現在の大津市に宇佐山城を築き、浅井・朝倉連合軍と対峙しますが・・・その戦いの中で討たれてしまいます。

可成が討たれたのは聖衆来迎寺から近い比叡辻だったと言われていて、当時の聖衆来迎寺の住職は可成の遺骸を夜中に密かに運び込み、葬ったそうです。

この当時比叡山は浅井・朝倉軍と手を組んでいて、その関係から言えば森可成は敵方の武将です。しかし聖衆来迎寺の住職はそんな可成を手厚く葬りました。そのため翌年の比叡山焼き討ちの際に災禍を免れたのではないか・・・というわけですね。

 

そんな経緯で聖衆来迎寺には森可成の墓が今も残されています。

また、聖衆来迎寺には坂本城から移築された城門が残されているので、後にこの地を治めた光秀とも良好な関係だったのかもしれません。

坂本城趾碑

 

聖衆来迎寺アクセス

聖衆来迎寺
〒520-0104 滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17

聖衆来迎寺は坂本城址公園からも近く、坂本城からだと北に2kmほど位の場所に位置しています。

なので坂本城址公園・坂本城跡などと併せて訪れてみるのも良いですね。

公共の交通機関を使う場合はJR湖西線「比叡山坂本駅」が最寄り駅。徒歩15分ほどで到着します。

 

専用の駐車場あり

聖衆来迎寺は専用の駐車場が完備されています。

聖衆来迎寺の駐車場

駐車場自体も県道588号線沿いにあって分かりやすいので、車でのアクセスも安心ですね。

 

 

聖衆来迎寺

というわけで聖衆来迎寺にいってきました!

 

こちらが聖衆来迎寺の入り口です。

聖衆来迎寺

駐車場の目のが入口・・・というか入口の目の前が駐車場なので、車から降りればすぐに入口が目に入ります。

石段の先には表門が見えてますね。

 

表門(坂本城城門)

こちらが聖衆来迎寺の表門になります。

聖衆来迎寺の表門

この表門は坂本城の城門を移築したものと伝わってますね。

 

表門をくぐり、境内側からも写真を撮ってみました。

聖衆来迎寺の表門

こちらから見た方が城門っぽい雰囲気がありますね!

門自体はだいぶ小さい印象ですが、確かに西教寺に移築された坂本城城門(西教寺総門)と形がよく似ている気がします。

 

ちなみに上の写真の向かって左側、門の横には「番所」と書いた札がぶら下がっていて、確かに番所っぽいスペースがありました。

城門をそのまま移築したため番所も残ってるってことですね。

 

本堂

こちらが聖衆来迎寺の本堂です。

聖衆来迎寺・本堂

本堂は比叡山焼討ちを免れてますが、現在の建物は江戸時代の建築とのことでした。

そういえば聖衆来迎寺の本堂は面白い特徴があって、縁側が石造りなんですよね。実際見てみると土台部分がほぼ石造りになってました。こういう造りの寺院を見たのは私は初めてですねー。

また、聖衆来迎寺は比叡山焼き討ちを免れたため多くの寺宝が残っていて、毎年8月16日の「虫干会」で見ることができるそうです。それ以外の日でも事前予約すれば拝観出来るらしいですが、普段は寺宝が博物館などで展示されてて揃っていないのだとか(汗

なのでどうせ見るなら虫干会の際に訪れてみるのが良いでしょう。

 

ちなみに寺宝で有名なのは「絹本著色六道絵」ですね。これは国宝になってます。

 

客殿

聖衆来迎寺・客殿

本堂の横には客殿があります。

客殿は江戸時代初期の寛永16年(1639年)に建築されたと伝わってるそうです。内部は2列3室の6室と古書院、茶室があり、寺宝も複数展示されているとのことでした。予約すれば本殿と一緒に拝観できるみたいです。

狩野探幽が描いた障壁画も残っているそうですね。

 

開山堂

客殿のさらに左手には開山堂があります。

聖衆来迎寺・開山堂

開山堂は客殿と同じく寛永16年(1639年)に建てられたものらしいですね。

聖衆来迎寺を再興した恵心僧都源信と、天海が祀られているという解説が開山堂前の看板にありました。天海はあの「南光坊天海」ですね。

実は後で調べてみたら「家康と天海の像が祀られている」という情報が出てきたのですが、開山堂前の看板では家康のことが伏せられてました。何故かはわからないんですが、何か理由があるのかもしれません・・・

 

森可成公ノ墓

開山堂の左手には墓地があり、手前の方に森可成公の墓があります。

森可成公ノ墓

森可成・・・というか森氏は元々美濃の土岐氏に仕えてた一族ですね。

しかし土岐氏が斎藤道三によって追放された頃に織田家へ仕えるようになったと言われてます。なので織田家譜代の家臣ではありません。とはいえ尾張国統一以前から信長に仕え、尾張国統一・美濃攻略においても多くの武功を挙げた森可成は信長からの信頼もかなり厚かったと言われてますね。

ちょうど柴田勝家と同年代の方ですし、勝家よりも早い段階から信長に仕えていたことを考えると、もし生きていれば後年織田軍の中核を担う一人になっていたかもしれません。

そんな可成が討たれた事は信長にとっても大きな痛手だった事は間違いないでしょう。

可成は比叡山延暦寺の僧兵まで加わった浅井・朝倉軍によって討たれているので、この件が比叡山焼討ちに少なからず影響していたとしても不思議はありません。そして、そんな可成を手厚く葬った聖衆来迎寺に信長が恩義を感じたとしても何の不思議もないですね。

 

まとめ

というわけで聖衆来迎寺を紹介しました!

聖衆来迎寺は比叡山延暦寺や坂本城・西教寺などと近い場所にあるので、併せて訪れてみると良いんじゃないかと思います。

拝観希望の場合は事前予約を忘れずに!ですね。

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