こんにちは!ZIGです。
今回は京都府宮津市にある盛林寺を紹介します!
盛林寺は明智光秀の娘・ガラシャともゆかりがある寺で、現在も光秀公の首塚が残されています。今回はこの首塚を見るために盛林寺に行ってみました。
盛林寺について
盛林寺は天正5年(1577年)、当時宮津谷を支配していた一色氏の重臣・小倉播磨守が菩提寺として造ったと言われています。そのため現在でも盛林寺には一色氏・小倉氏の過去帳・位牌が残されているそうです。
ちなみに当時は現在の場所ではなく、宮津大久保谷に建てられたそうですが正確な場所は分からないとのことでした。ただ宮津には変わりないのでさほど離れた場所ではないのだと思われます。
盛林寺が創建されて間も無く、一色氏と小倉氏は信長の名で丹後に攻め入った細川藤孝によって滅ぼされてしまいます。しかし盛林寺は細川藤孝にも厚く保護されました。
それを示すように盛林寺には夭折した細川藤孝の子「菊」を描いた「即安梅心童子画像」などが今も残されています。
・・・で、細川藤孝と言えば明智光秀の盟友としても有名ですね!嫡男・忠興にも光秀の娘・ガラシャ(玉)が嫁いでいます。なので藤孝が丹後を治めるようになった際、忠興とともに宮津へやってきました。
あるいは忠興やガラシャも盛林寺にも訪れたことがあるかもしれませんね。
そんな盛林寺にはガラシャによって建てられたという光秀公の首塚が今も残されているのです。
盛林寺アクセス
盛林寺は京都丹後鉄道宮福線「喜多駅」が最寄り駅。駅から南西へ10分ほど歩くとたどり着きます。
車でアクセスする場合は宮津天橋立ICが最寄りのインター。ここから2km程の距離で、時間的には5分程度で到着します。
駐車場はなし
盛林寺には駐車場がありません。
なので電車でアクセスするか、どこかに車を止めて歩いていく形になりますね。
盛林寺の近くには上宮津地区公民館があるのですが、そちらの駐車場を使わせてもらうことができるようです。
大円山盛林寺
というわけで盛林寺に行ってきました!
こちらが盛林寺の入り口。
山の麓に立っているので後ろは山になってますね。
こちらが盛林寺の山門です。
結構古いもののように感じられました。
盛林寺は慶長8年(1603年)に上宮津寺谷に移転し、貞享2年(1685年)に現在の場所に移築されたそうです。
つまりこの場所に建てられてからでも300年以上経ってることになりますね。
山門をくぐって境内へ。
境内に入ると、正面はすぐ本堂です。
盛林寺はさほど大きな寺院ではないみたいですね。
ただ、しっかり手が行き届いていているのが印象的でした。
三界唯心塔婆
山門から向かって左手にデカい石碑があります。
このせきひは「三界唯心塔婆(さんかゆいしんとうば)」と言って、盛林寺を開山した趙室宗柏和尚によって建てられたものとのこと。開山の記念碑だそうです。
先ほどちょっと触れましたが盛林寺は2度移転していて、この石碑は旧地の寺谷で「たたり石」として倒れ伏した状態で放置されていたそうです。それが調査の結果開山の記念碑だと判明し、ここに運んだみたいですね。
かなりデカい岩ですし運ぶの大変だったんじゃないでしょうか(汗
光秀の首塚
光秀公の首塚は本堂の裏手の墓地にあります。
境内にはしっかり案内の石碑が建っていました。
さきほどの「三界唯心塔婆」の横を抜け、案内の石碑に沿って進むと墓地がすぐ見えてきます。
「古墓配置図」と書かれた看板が立っている方がそうですね。
配置図があることからも分かるように、ここには結構な数の五輪塔が残されていました。
こちらが光秀公の首塚ですね。
111cmの宝篋印塔で、天正10年6月13日、條鉄光秀居士と刻まれているそうです。
この辺りには光秀の首がガラシャ(玉)の元に届けられたという話があり、その首をここに葬ったということですね。ただ粟田口で処刑された光秀の首がここまで運ばれてきた可能性はやっぱり低いんじゃないかな・・・という気がします。
あるいは何か遺品などが埋められている可能性はあるかもしれませんね。
一色氏供養塔
光秀公の首塚のそばには一色氏の供養塔もありました。
大分新しいもののように見えたので、作り直したのか、新たに建てたものかもしれません。
一色氏は細川藤孝が攻めてくるまで丹後を支配していた一族ですね。
まとめ
というわけで盛林寺を紹介しました!
盛林寺は細川藤孝が居城とした宮津城、そして天橋立からもそう離れてません。なのでこうしたスポットと併せて訪れると良いですね。
細川藤孝や明智光秀、そしてガラシャに縁のある地のひとつとして巡ってみると良いんじゃないかと思います。