坂本城 | 光秀が拠点とするもわずか15年で姿を消した水城(滋賀県大津市)

坂本城趾碑

こんにちは!ZIGです。

今回は滋賀県大津市にある坂本城跡を訪れたので紹介します。

坂本城は明智光秀が築城した城としてよく知られてますね!安土城よりも先に天守を備え、安土城に次ぐ豪華壮麗な城だったとも言われています。

坂本城について

坂本城跡
▲坂本城址公園にある坂本城縄張り図▲

坂本城は元亀2年(1571年)に明智光秀が築城を始めたとされています。

元亀2年といえば織田信長が「比叡山焼討ち」を行った年。比叡山焼討ちにおいて光秀は大きな功績があり、近江滋賀郡を与えられたと言われています。この滋賀郡を統治する拠点として建てられたのが坂本城ですね。

琵琶湖畔に建てられた坂本城は豪華壮麗で、後に作られた安土城に先駆けて天守が作られたなんて話もありますし、宣教師ルイス・フロイスも「安土城に次ぎ、明智の城(坂本城)ほど有名なものは天下になかった」と書き残しています。

安土城跡

とにかくかなり当時としては豪華な城だったみたいですね。

そんな坂本城は本能寺の変が起こる天正10年(1582年)に至るまで、光秀が城主を務めました。10年以上にわたって光秀の本拠地だったと言えますね。山崎の戦いに敗れ、光秀が落ち延びようと目指したのも坂本城です。

しかし光秀は坂本城にたどり着くことなく京都の醍醐・山科辺りで討ち取られてしまいました。

そして坂本城も光秀が討たれた事を知った家臣・明智秀満によって火を放たれ、焼け落ちてしまいます。

 

その後坂本城は丹羽長秀によって再建され、丹羽長秀・杉原家次・浅野長政の3人が城主となっています。しかし天正14年(1586年)に秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して移転したことで廃城となりました。

坂本城の資材は大津城築城に使われたといわれているので、解体されてしまったみたいですね。

というわけで築城からわずか15年ほどで豪華壮麗と謳われた坂本城はその姿を消してしまいました。

現在はわずかに遺構が残っているのみとなっています。

 

坂本城(坂本城址公園)アクセス

坂本城址公園
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1

※地図は坂本城跡ではなく、坂本城址公園を表示させています。

坂本城址公園には明智光秀像と共に坂本城の縄張り図が描かれた看板があります。これを見てから遺構を見て回るとスムーズなので、坂本城址公園を目印にしてアクセスするとよいでしょう。

ちなみに坂本城址公園は県道558号(高島大津線)沿いにあります。

公園入口に「坂本城址」の石碑が建っているので目印にすると良いですね。

 

駐車場は坂本城址公園へ

車でアクセスする場合は坂本城址公園の駐車場を利用しましょう。

先ほど書いた通り坂本城は大半の遺構が失われていて、ほぼ全域が住宅地ですし、専用の駐車場もありません。

なので坂本城址公園の駐車場を使わせてもらう方がスムーズです。

 

 

坂本城址公園

というわけで坂本城跡へ行ってきました!

この時は車でアクセスしたのでまず坂本城址公園へ向かいます。

 

こちらが坂本城址公園の入口にある石碑ですね。

坂本城址公園

結構大きいんですが、車で行くと意外と見落としやすいので要注意。

道路沿いに木が生えているせいか直前まで目に入りませんでした(汗

 

 

ちょっと引いて駐車場の写真も撮ってみました。

坂本城址公園

駐車場は10台くらいなら駐められるかな?って感じですね。

公園自体もそれほど大きくありませんし、駐車場も広くはありません。

 

 

明智光秀像

坂本城址公園内には明智光秀像や光秀の業績を記載した石碑などがあります。

こちらが明智光秀像ですね。

坂本城址公園の明智光秀像

何度かネットで見たこともありましたが、うーん・・・

 

 

拡大してみました(笑

明智光秀像

・・・

うーん、もうちょっと格好良くならなかったのだろうか(爆

そう思うのは私だけでしょうか・・・

 

 

ちなみに光秀像の近くには「光秀(おとこ)の意地」という演歌の歌詞が書かれた石碑があります。

坂本城址公園

こんな歌があるって事は全く知りませんでした(汗

 

ちなみに石碑の横にはボタンが付いていて、押すと歌が流れます。

坂本城址公園

よく見ると石碑の裏にスピーカーがありますね(笑

まあ聞いてみたい人は聞いてみれば良いんじゃない、かな・・・

 

 

坂本城の石垣跡

坂本城址公園の琵琶湖側には坂本城のものだと言われてる石垣が残ってます。

坂本城址公園に残る石垣

ただ、実際見てみたらちょっと石垣だという確信は持てませんでした。

なんというか、それほど古いもののように見えなかったんですよね(汗

これってもしかして公園作るときに一緒に作ったものだったりするんじゃないでしょうか・・・??

 

本丸跡碑

坂本城址公園を見た後、本丸跡の碑を見に行きました。

 

坂本城址公園の前を通る県道558号線を北へ少し歩いて行くと、道沿いに本丸碑があります。

坂本城本丸碑

ただ、本丸碑はめっちゃ分かりにくいところにありました(汗

実は上の写真の中に本丸碑はあります。どこかと言いますと・・・

 

 

 

ココです。

坂本城本丸跡碑の場所

琵琶湖側に建っている会社の入口辺り。

ここはホントに分かりにくくて、2~3回通り過ぎてようやく見つけました(笑

 

 

こちらが坂本城の本丸跡碑ですね。

坂本城本丸碑

実は私、最初はこれ会社の名前でも書かれてるんだと思ってました。

だって会社の入口に建ってるし(笑

しかしよく見たら「本丸跡碑」の文字が見えました。書いてある文字も読みにくかったのですが、記載されてた内容は以下の通り。

坂本城本丸跡碑
坂本城は元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの跡、明智光秀により東南寺川河口に気付かれた水城としてよく知られている。天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸、礎石建物等が発掘された。

 

・・・というわけで本丸はこの辺りにあったわけですが、正直遺構と言えるようなものは何もありません。

琵琶湖側には何か遺構が残っているのかもしれませんが、明らかに会社の敷地になってますし、琵琶湖側を見ることは出来ませんでした。

 

明智塚

本丸跡碑から少し北へ行った道沿いには「明智塚」という塚があります。

坂本城址公園にあった縄張り図を参考にすると、場所的には二の丸があった辺りですね。

 

こちらが明智塚になります。

明智塚

入口の横に塚の由来が書かれていて、ここは坂本城落城の際、光秀の脇差「郷義弘(倶利伽羅江)」や宝器物を埋めた跡なんだそうです。

そのため明智一族の墓所(供養塔)と伝えられているみたいですね。毎年6月15日には祭りが行われて居るという記載もありました。

 

こちらが奥にある塚ですね。

明智塚

とてもしっかり手入れされているのが印象的でした。

 

坂本城碑

二の丸の南端あたりには坂本城址碑が建っています。

坂本城碑

石碑の横にも坂本城の解説看板が立っており、坂本城が山門(延暦寺)の監視、美濃・京都間のルート確保、水運のための重要拠点だった旨が記載されてました。

確かにこのエリアは当時の信長にとって色んな意味で重要な場所だったでしょうし、そこを光秀に任せたというところからも信長が光秀を信頼していたことが想像できますね。

 

ちなみに坂本城址碑の東(琵琶湖側)には東南寺という寺院があり、ここには坂本城落城の際に命を落とした方々の首塚が残っています。

 

旧大道町(中堀跡)

坂本城趾碑の前を南北へ通る道は江戸時代に西近江路(北国街道)として交通の要衝でした。

そのためこのあたりは「大道町」と呼ばれていたらしいです。

旧大道町碑

 

で、実はこの道があった場所が坂本城の内堀だったみたいですね。

確かに坂本城址公園の縄張り図を見るとここは二の丸と三の丸の境になっていて、堀があったようです。

ただ、残念ながら現在その形跡を見ることは出来ません。

 

あとは外堀があったと思われる道を通って坂本城址公園に戻りました。

実際歩いてみると1時間ほど。色々迷いながらでそのくらいなので、スムーズに行けば1時間もかからないかもしれませんね。

 

 

まとめ

というわけで坂本城を紹介しました。

明智光秀と言えば亀山城や福知山城も思い浮かびますが、やっぱり坂本城のイメージが強いので遺構がほとんど残っていないのが残念ですね。

ただこのあたりは西教寺や聖衆来迎寺、盛安寺など光秀にゆかりのある場所も多いので併せて訪れてみる良いと思います!

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