こんにちは!ZIGです。
今回は滋賀県大津市にある西教寺を訪れたので紹介します!
西教寺は明智光秀と縁の深い寺院で、境内には明智一族の墓や光秀の妻・煕子の墓が残されています。また、坂本城の城門も移築されて残っていることが知られてますね。
目次
西教寺について
西教寺は天台真盛宗の総本山で、聖徳太子が創建したとも言われています。
なので歴史は古いのですが、室町時代より前の歴史は定かではないらしいですね。ただ、一時はかなり荒廃していたみたいです。
しかし室町時代中期の文明18年(1486年)、比叡山で修業した真盛上人が入寺し、西光寺を再興しました。そのため真盛上人は西教寺の「中興の祖」と言われていて、今でも西教寺には真盛上人の御廟があります。
その後の元亀2年(1571年)、西教寺は織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失。
比叡山焼き討ち後に近江滋賀郡を与えられた明智光秀は坂本城を築城しますが、坂本城と西教寺はかなり近い場所にあります。
この頃から西教寺と光秀の関係は浅からぬものがあったのでしょう。西教寺の本堂は3年ほどで再建されていますが、西教寺の檀徒となった光秀も復興に力を注いだと言われてますね。
そんな西教寺と光秀の深い関係を示すように、西教寺には明智一族の墓や光秀の妻・煕子の墓が残されていることが知られてます。また戦で命を落とした部下の供養のため、供養米を寄進した際に光秀が書いた寄進状も残されています。
西教寺へのアクセス
西教寺は公共の交通機関でのアクセスも可能ですし、駐車場もあるので車でのアクセスもスムーズです。電車の場合はJR湖西線・京阪電車どちらからでもアクセス可能。
JR湖西線の場合は「比叡山坂本駅」から江若バスに乗れば7分ほど。徒歩だと30分ほどの時間がかかります。
京阪電車「坂本駅」からもアクセスしやすく、こちらも江若バスに乗って25分ほど。徒歩の場合は25分ほどで到着ですね。
車でアクセスする場合は大津インターから琵琶湖沿いを北へ約15kmほど、時間にして20~30分ほどの距離です。
参拝者専用駐車場完備
西教寺は参拝者専用の駐車場が完備されているので、車で直接アクセスしても困りません。
駐車場は西教寺総門の脇にあり、駐車場脇にはトイレもあります。
境内の地図もあるので、位置関係を頭に入れた上で参拝するとスムーズですよ!
天台真盛宗の総本山・西教寺
というわけで西教寺に行ってきました♪
今回は車で訪れたので総門脇の駐車場を利用させてもらいました。
以下は駐車場にある西教寺の境内図。
結構広いし、建物も多いですね!
なのである程度最初に配置を覚えておくと見て回るのにスムーズです。
というわけで駐車場に車を置き、さっそく総門へ向かいます。
総門(坂本城城門)
こちらが西教寺の総門になります。
西教寺は明智一族の菩提寺としてよく知られてますね。しっかり総門にものぼりが付いてました(笑
西教寺の総門は坂本城の城門を移築したものと伝わっています。
天正年間に移築されたと言われているので、光秀が坂本城の城主を務めていた当時か、その後坂本城が廃城になるまでの間にここに移されたみたいですね。大津城を築城する際に坂本城は解体&資材が大津城の建設に使われたって話があるので、それより以前にここに移築されたということでしょう。
昭和59年には老朽化のため修理が行われたそうですが、形自体はそのまま復元されているそうです。
ちなみに坂本城の城門は同じ滋賀県内の聖衆来迎寺にも移築されて残ってますね。
勅使門
総門をくぐり、まっすぐ進むと正面に勅使門が見えてきます。
現在は柵が付けられて通ることが出来ませんが、昔は実際に勅使(天皇が出す使者)が通ったのでしょうね。
勅使門の左手の道から本堂の方へ向かいます。
途中には良い感じに苔むした石垣がありました。
これは昔からあるものを修復したっぽいですね。実に綺麗な石垣でした。
本堂
少し上り坂を歩いて行くと本堂の前に出ます。
とりあえず、思った以上にデカい!というのが一目見た感想でした。
さすが総本山。
ちなみに現在の本堂は江戸時代、元文4年(1739年)に落成したものだそうです。
先ほどちょっと触れたとおり、西教寺は元亀2年(1571年)に一度焼失しています。そして本堂が再建されたのが天正2年(1574年)。その後経年劣化もあったということですかね?江戸時代に入って享保3年(1717年)に第二十世の真際上人が再建に乗り出し、元文4年に落成、現在に至るという流れ。
横に回ってもう一枚撮ってみました。
装飾も綺麗ですねー。
この本堂は昭和61年に国の重要文化財に指定されたそうです。
客殿
本堂の向かって左手には客殿があります。こちらも重要文化財指定。
この客殿は元々豊臣秀吉の伏見城の旧殿らしいですね。
それを大谷刑部吉隆の母・山中山城守令室が寄進したと言われていて、桃山様式をよく表している建物とのこと。
外からでは見えませんが、狩野派の描いた襖絵が残ってるそうです。
大本坊
本堂の北側には大本坊があります。大本坊は庫裏の事ですね。
大本坊の手前には本坊庭園があります。
本坊庭園は江戸時代に造られた者で、三尊石組の枯山水の石庭とのこと。
現在の大本坊は昭和33年に改築されたものと看板に書かれてました。
ちなみにこの大本坊ですが、元々は坂本城の陣屋だったらしいですね。
比叡山焼討ちによって西教寺が全焼した後、明智光秀が復興に尽力したことは先ほども触れましたが、その中で坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建したんだそうです。
そんな大本坊には現在も明智光秀公・妻の煕子夫人の木像が安置されているとのことでした。
いやあ・・・坂本城の城門が移築されてるという話は知ってましたが、他にも移築された建物があったとは知りませんでした。光秀は西教寺の再興に相当力を入れてたってことですね・・・
鐘楼堂
本堂の脇には鐘楼堂があります。
こちらは大津市指定文化財とのこと。
天保2年(1831年)に建てられたもので、細かな彫刻が施されているのが印象的でした。
観音堂
鐘楼堂の横には納骨堂、観音堂が並んでました。
こちらは観音堂。
中には観音様の像があります。
明智光秀公と一族の墓
西教寺は本堂と向かい合うようにして広大な墓地があるのですが、最も本堂に近い場所に明智光秀公と一族の墓があります。
山崎の戦いで敗れた後、一族と共にここに葬られた・・・という解説がされていました。
墓の近くには明智光秀辞世の句を刻んだ石碑が建てられてます。
この句は「明智軍記」に書かれてるものですね。
歴史上の論議はあれど・・・という断りが横の看板には書かれてました。
明智軍記は後世の創作って可能性も高いですしね(汗
光秀の妻・煕子の墓
明智一族の墓の左手、同じ並びに小さなお墓が残っています。
光秀の妻・煕子の墓ですね。
煕子は光秀の正室であり、ガラシャの母としても知られてますね。
煕子は光秀が討たれる6年前、天正4年に亡くなりました。この年光秀は石山本願寺との戦いの中で過労(もしくは病気)で倒れ、療養した期間があります。その後光秀は回復しますが、その直後に今度は煕子が体調を崩し、そのまま亡くなりました。
あるいは看病疲れといった可能性もあるのかもしれません。
ちなみに西教寺に残っている古文書には煕子の葬儀の際、光秀本人が参列したという記録が残ってるそうです。当時は妻が先に亡くなっても主人は葬儀に参列しないのが風習だったらしいのですが、それにも関わらず光秀は葬儀に参列したとのこと。
光秀の人柄を想像させる話ですね・・・。
煕子の墓の手前には芭蕉の句を刻んだ石碑が建っていました。
『月さびよ 明智が妻の はなしせむ』
福井県の称念寺にも同じ句が刻まれた石碑が残されてますね。
妻木一族の供養塔
煕子の墓の近くには妻木一族の供養塔がありました。
妻木氏は明智氏と同じく土岐氏の庶流で、煕子も妻木氏の一族だと言われてますね。
本能寺の変・山崎の戦いで妻木一族は光秀と共に戦いました。妻木城12代城主の妻木広忠も戦いに参加し、兄弟3人が討たれています。
広忠は最後まで坂本城を守りましたが、光秀が討たれたことが伝わり坂本城は落城。落城後、広忠は明智一族に殉じて討たれた人々を西教寺に埋葬して供養した後、煕子の墓の前で自刃したと言われてますね。
ちなみに妻木氏はその後広忠の嫡男・頼忠が後を継ぎ、江戸時代以降も存続しています。
真盛上人御廟
本堂と明智一族の墓の間には放生池という名前の小さな池があり、その奥に真盛上人の御廟があります。
真盛上人は最初に触れた通り、西教寺の「中興の祖」と言われた方ですね。
ここはかなり、階段が急です・・・(汗
ちょうどこの日は雨が降っていて、滑りやすくなってました。
しっかりした石段なので登りにくくはありませんが、雨の日は注意ですね。
こちらが真盛上人の御廟です。
この御廟は天保13年(1843年)に建てられたもので和様に唐様を混ぜた折衷様。堂内には真盛上人の墓(五輪塔)が安置されているそうです。
ちなみに御廟の周りにも御廟を囲むように墓が並んでいるのですが、こちらは西教寺の歴代住職の墓との事でした。
高田山真恵上人御廟塔
ちなみに真盛上人御廟へ向かう階段の途中、右手に脇道があります。
この脇道を入ると西教寺で最も年代の古い五輪塔「高田山真恵上人御廟塔」が建ってます。
こちらがそうですね。
鎌倉時代のものという話なので、700~800年くらいは前のものになるんでしょうか。
信長の比叡山焼討ちが行われた時もここに存在していた・・・と考えるとちょっと感慨深いものがあります。
戦国武将にゆかりのある人たちの墓
高田山真恵上人の御廟塔の前を通り、細い上り坂を歩いて行くと真盛上人御廟の裏を通り、墓地の最上段に出ます。
ここからは琵琶湖がしっかり見えました。
さきほども少し触れましたが、西教寺にはかなり広い墓地があります。
そして、その墓地には戦国武将とゆかりのある方の墓がいくつか残されてました。
- 長谷川左兵衛藤広の墓
- 長岡監物一族の墓
- 比良太郎兵衛の墓
- 山中山城守橘長俊の墓
- 前田菊子の墓
長谷川左兵衛藤広は徳川家康の家臣で長崎奉行、そして日本一大津そろばんの元祖だそうです。
長岡監物一族は肥後国熊本城城主・細川忠興の家臣。そして光秀とも血縁があると言われる比良太郎兵衛、伏見城の旧殿を西教寺へ移築した山中山城守、前田利家の6女で豊臣秀吉の養女となった前田菊子の墓など、誰もが知る武将と関わりのある方の墓がありました。
墓地が広いので探すのも一苦労ですが、時間があれば訪れてみると良いんじゃないかと思います。
宗祖大師殿
墓地を出て本堂へ戻り、最後に宗祖大師殿へ向かいします。
宗祖大師殿は西教寺が明治時代に「天台宗真盛派」を名乗るようになった際、要するに宗派独立の際に作られたものらしいですね。
本堂を少し下った辺り、勅使門の南側に宗祖大師殿があります。
こちらが大師殿の唐門ですね。
かなり細かな彫刻が彫られていて、豪華な感じだなーという印象でした。
なんとも月並みな感想ですが(笑
こちらが大師殿。
大師殿の向かいには真盛上人の像が建ってました。
この像は真盛上人が出家した当時、14歳の頃をイメージしたものらしいです。
なんと晩年の真盛上人像から骨格を調査し、制作したとのことでした。
まとめ
というわけで西教寺を紹介しました!
明智光秀との縁が深く、明智一族の菩提寺でもあるという話は知ってましたが、光秀は西教寺の再興に相当尽力していたんだな・・・と改めて感じることが出来ました。
そして西教寺は思った以上に広いですね!しっかり見て回るなら1時間~1時間半ほど見ておいた方が良いと思います。