龍護寺 | 明智光秀公御霊廟のある明知遠山氏の菩提寺(岐阜県恵那市)

龍護寺

こんにちは!ZIGです。

今回は岐阜県恵那市にある「龍護寺」を訪れてみました。

龍護寺は明知遠山氏の菩提寺なのですが、明智光秀の霊廟があることでも知られています。

龍護寺について

大明山龍護寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。

元々ここには楞厳院(りょうごんいん)という草庵があったのですが、慶長元年(1596年)に明知城主・遠山利景が城の北に浄地を選んで禅刹一宇を建立。そして楞厳院を改め龍護寺としました。そこから龍護寺は遠山家の菩提寺となるわけですね。

そのため本堂横には遠山家累代の墓があります。

ちなみに龍護寺には明智光秀公の御霊廟(供養塔)がある事が知られてますね。供養塔は龍護寺の山門前にあるのですが、光秀公に関する碑は「悲痛な思い」から割れると言われていて、ここ龍護寺にある供養塔も大きく斜めにひび割れが入ってるそうです。

同じ理由で高野山にある光秀の供養塔も割れていることが知られてますね。

また、龍護寺には寺宝として「九条衣」という袈裟が所蔵されているのですが、九条衣の四隅には光秀の直垂の布が縫い込まれていると言われています。

この直垂はある夜ここに現れた落ち武者が持参したもので、無念の主君光秀公の永代供養を乞うて去ったそうです。この落ち武者の名は残っていないようでした。

 

龍護寺へのアクセス

龍護寺
〒509-7718 岐阜県恵那市明智町1389-1

龍護寺は明知城の北の山麓に位置し、駅からも近い場所にあります。

明和鉄道・明智駅から徒歩5分ほど。

車の場合は大正村無料駐車場に車を止めるとよいでしょう。そこからやはり5分ほど歩くと龍護寺に着きます。

 

龍護寺

というわけで実際に龍護寺に行ってきました!

この時は明知城を搦手口から大手門方面へ抜けてきたので、そのまま龍護寺を訪れてみました。

 

明知城の馬場跡の道を北へ歩いて行くと、以下の看板が見えてきます。

龍護寺

看板の後ろに見えているのが龍護寺ですね。

 

 

一旦龍護寺の正面に周ってみたのですが、何かがおかしい・・・

龍護寺

・・・と思ったら山門がありません(汗

どうやら山門周辺がガッツリ工事中で通ることもできないようです。

これはまあ、ある意味レアな状況ではあるのか・・・?

 

 

こちらが龍護寺の本殿です。

龍護寺

しっかり重機が写ってますね(泣

 

 

この本殿の横の林の中に遠山家累代の墓があります。

龍護寺

そちらは後ほど。

 

 

明智光秀公御霊廟

明智光秀公御霊廟は龍護寺の山門の手前にあります。

明智光秀公御霊廟

大きな看板が出ているのですぐ分かりました。

 

こちらは正面からの写真。

明智光秀公御霊廟

正面にある建物の中に「割れている」光秀の供養塔があります。

普段は見ることは出来ないみたいですね。

 

 

建物の前には桔梗門と、よく知られている明智光秀の肖像画のコピーが置いてありました。

明智光秀公御霊廟

 

 

向かって右手には「明智光秀出生地」の石碑もありました。

明智光秀公御霊廟

光秀は明知城の出城、落合砦(千畳敷砦)で生まれたという言い伝えがこの地域には残っています。

生誕地がハッキリしないので岐阜県内には光秀の出生地や産湯の井戸が複数ありますね。これもそのうちのひとつ。

 

左手の奥にもいくつか墓がありました。

明智光秀公御霊廟

こちらは誰のものか分かりませんでした。

 

 

霊廟の入り口には龍護寺の成り立ちと周辺地図、明知遠山氏と土岐明智氏の系図が掲載されています。

明智光秀公御霊廟

この系図では遠山氏と明智光秀の関連性が分かるようになってますね。

この系図によれば遠山景行は明智光安と同一人物だとされています。明智光安は光秀の叔父に当たる人ですね。

これは「恵那叢書」という書物の記載が根拠になってるそうで、この説に従うなら光安は土岐明智氏の家に生まれ、明知遠山氏を継いだことになります。

明智光安は1556年(弘治2年)に明智城(可児市)で斎藤義龍に討たれたと言われてますが、景行になったとすれば生きてた事になりますね。あるいはそもそもその場にいなかったという事になるんでしょうか?この系図からでは光安がいつ景行となったのかまでは分かりません。

ちなみに景行は1570年(1572年とも)の上村合戦で討たれたと言われてますね。

 

なので土岐明智氏と明智遠山氏に関係があるのは分かるのですが、そこに光秀がどう関わってきているのか?そこはハッキリとは分かりませんでした。

まあただ、光安が跡継ぎがいなかった明智遠山氏を継いだように、土岐明智氏でも跡継ぎがいなくなってしまい、明智遠山氏の一族として生まれた光秀が土岐明智氏を継いだということでしょうか。

 

 

ちなみにこの系図にはよく知られてる人物の名前がありますね。

「遠山の金さん」でよく知られる南町奉行・遠山景元(金四郎)です。

龍護寺

金さんは明知遠山氏の一族なんですね(分家で直接の血縁はないらしいです)。

 

他にもペリーが来航した際、浦賀奉行を務めていたという遠山景高の名前もありました。

 

 

明知遠山家累代の墓

明知遠山氏累代の墓

明知遠山家累代の墓には遠山景行から景珍までひとりひとりの墓がありました。

左右に並んでいるのがそうですね。

ちなみに正面に見える祠が明知遠山家累代の墓で、遠山景元(金四郎)も合祀されているそうです。

 

墓地の隣には二座の如意輪観音菩薩像が建てられてました。

明知遠山氏累代の墓

左は遠山伊次の後室「凉光院」の像、右は遠山景達公の娘「岩岡局」の像だそうです。

右にある岩岡局の像の前には桔梗紋が彫られてますね。遠山氏と明智氏の関係が深いことを表しているとの事でした。

 

まとめ

というわけで龍護寺を紹介しました!

この周辺には「明智光秀手植えの楓」が残る金弊社八王子神社や明知遠山氏の居城明知城、その出城であり光秀生誕地の伝承がある落合砦など光秀ゆかりの場所が複数存在します。

龍護寺に訪れた際には併せて訪問してみると良いですね。

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