宮津城 | 細川藤孝が丹後統治の拠点として築いた城(京都府宮津市)

宮津城太鼓門

こんにちは!ZIGです。

今回は京都府宮津市にある宮津城跡を訪れたので紹介します!

宮津城は天橋立からも近く、細川藤孝の居城として知られていますね。

宮津城について

宮津城は丹後を与えられた細川藤孝が築城し、丹波統治の拠点としたことで知られてます。

元々宮津は丹後の中心地で、この付近には丹後守護職・一色氏の居城があったと言われています。しかし天正6年(1579年)、織田信長の命により明智光秀・細川藤孝が丹後に侵攻。その後一色氏は滅亡することに。

その功績で細川藤孝は丹後を与えられ、宮津城を築城しました。

その後藤孝は本能寺の変の際に隠居して田辺城に移っているので、居城としたのは短期間ですが、その後は嫡男の忠興が居城としています。

その後、細川家は関ケ原の戦いの功績で豊前に転封。代わりに京極家が丹後を治めるようになります。その後も宮津城は城主が複数回変わりますが、宝暦8年(1758年)に松平資昌が丹後藩主となってからは松平家が7代に渡って城主を務め、明治維新を迎えました。

 

そんな宮津城は現在ほぼすべて姿を消してしまっていて、若干の遺構が確認出来るのみ。宮津市立宮津小学校に馬場先御門の太鼓門が当時の姿を確認出来る唯一の遺構ですね。

 

宮津城アクセス

宮津城はほぼ遺構が存在しないので、宮津城太鼓門の場所を掲載しておきます。

Googlemapで見ると「宮津城跡」という地点があるのですが、実際そこに行っても何もありません(汗

おそらく本丸がこの辺りだったというだけで、遺構と言えるものは何も確認出来ませんでした。

 

駐車場

というわけで宮津城はそもそも城跡として残っているわけではないので専用の駐車場はありません。

ただ、かつて城下町があったエリア内に「大手川ふれあい広場」があり、この駐車場が無料で開放されてます。なのでここに車を止め、遺構を確認すると良いでしょう。

大手川ふれあい広場駐車場

15台程度は駐車できるスペースがありました。

 

場所は宮津市役所のすぐ南になります。

大手川ふれあい広場駐車場

駐車場の入口が小さくて見落としやすいので注意ですね。

 

宮津城跡

というわけで宮津城に行ってきました♪

まずは大手川ふれあい広場の駐車場に車を止め、広場を見に行きます。

この広場は元々藩医・小谷仙庵の屋敷があった場所で、明治時代には旧藩士の大村氏の屋敷があったそうです。屋敷は昭和61年に焼失してしまいましたが、現在も長屋門が残されています。

で、広場にはガラシャ像もあるんですよね。まずはこれらを確認です♪

大村邸跡(大手川ふれあい広場)

こちら大村邸の長屋門ですね。

宮津の木村邸跡

駐車場の真横にあるので、車を止めればすぐ目に入ります。

 

そして広場の方へ行くと、おそらく宮津城の本丸の方を見ているガラシャ像がありました。

大手川ふれあい広場のガラシャ像

この像はガラシャとその夫・忠興の生誕450周年を記念して平成25年に建てられたものだそうです。

 

・・・で。広場には宮津城の解説看板があり、宮津城の絵図も掲載されてました。

宮津城の江戸時代の縄張り

これは江戸時代の絵図らしいですね。

絵図を見ると大手川の東側、海岸沿いに城が造られていたことが分かります。

 

宮津城石垣跡

ふれあい広場の隣、市役所の川沿いには宮津城の石垣跡があります。

宮津城石垣跡

 

このあたりが多分そうなのですが・・・

宮津城石垣跡

当時のものなのか、復元されたものなのかはちょっと分かりませんでした(汗

やけに綺麗に積まれているので復元ぽい感じではありますね・・・

 

宮津城太鼓門(馬場先御門)

石垣跡を見た跡は大手川の東側を南へ。

「しらかべの道」を200mほど歩いて行くと宮津城太鼓門が見えてきます。

宮津城太鼓門

太鼓門は現在宮津小学校の正門になっているので、「宮津小学校」の札が架かってますね。

この門が現在も残っている唯一の宮津城の建築物です。

 

宮津城で使われていた石材

太鼓門を見た跡は大手川沿いを北に進み、国道178号線へ。

宮津竹田病院の前に宮津城の石垣に使われてた石が残されています。

 

こちらがそうですね。

宮津城本丸黒金門の袖石垣

奥にある大きな石が宮津城の本丸入口、くろがね門の袖石垣に使われていたもだそうです。

目の前で見るとかなりのデカさがありました。

 

・・・で、その手前には礎石がひとつ。

宮津城の大手橋橋脚礎石

これは大手橋橋脚の礎石とのこと。

 

そして手前にあった石は宮津城の波止場で使われていた石らしいです。

宮津城北側波止場の舟つなぎ石

真ん中辺りが凹んでいるのは縄がかけられていたからですね。多分。

 

宮津城を忍ぶことが出来る遺構はこの程度。

後はすべて、地下に埋まってしまっているそうです。

 

一色稲荷社

宮津城そのものの遺構ではありませんが、宮津城の城郭エリア内には一色稲荷社が残されています。

一色稲荷社の看板

一色氏は細川藤孝が統治する前の丹後守護職の一族ですね。

「一色義清自刃の地」という看板も立っていました。一色義清は一色氏最後の当主だったといわれている人ですね。そんな一色氏の鎮魂の意味もあってここに建てられているみたいです。

 

一色稲荷社は宮津の駅前通り、宮津郵便局の西側にあります。

大手川ふれあい広場にあった宮津城の絵図を見た感じだと、おそらく宮津城の城郭の端あたりにあったのかな?という感じでした。

 

こちらが一色稲荷社の鳥居ですね。

一色稲荷社の鳥居

敷地は狭く、家一軒ほどのスペースしかありません。

奥には小さな社が建てられてますね。

 

境内には石碑もありました。

一色稲荷社の石碑

一色氏は山崎の戦いの際、明智光秀に味方しました。

その影響もあってか後に秀吉に謀反の嫌疑をかけられ、当時当主だった一色義定が宮津城内で謀殺されたと言われています。ちなみにその場所というのが細川家の資料では米田屋敷、丹州三家物語では有吉屋敷となっていて、ちょうど今一色稲荷社がある辺りらしいですね。

義定が討たれたため一色氏は義清を当主としますが、義清も細川家に攻められ討ち取られます。

こうして一色氏は滅亡してしまうわけですが、そうした謀略などの経緯もあって一色稲荷社が建立されたのかもしれませんね。

 

まとめ

というわけで宮津城を紹介しました!

宮津城は遺構の大半が失われているのでちょっと物足りなさはありますね(汗

しかし周辺には天橋立もありますし、光秀の首塚が残る盛林寺、一色氏の居城だった弓木城などもあります。こうしたスポットと併せて訪れてみると良いですね。