こんにちは!ZIGです。
ここでは福井県内の明智光秀にゆかりのある地を紹介します!
2020年大河ドラマの主人公・明智光秀は美濃から落ち延びた後、長く越前(福井県)に住んでいたのではないかと言われてますね。それを裏付けるように福井県内には光秀にゆかりの地がいくつか存在しています。今回はそんな場所を実際に訪れ、まとめてみました。
目次
【6選】福井県の明智光秀ゆかりの地まとめ
称念寺(福井県坂井市)
称念寺は新田義貞公の墓所があることでも知られる時宗の寺院。
そんな称念寺の門前にかつて明智光秀が長く暮らしていたという話があります。光秀が越前にいたという話は「明智軍記」でのみ確認出来る話で、信憑性が定かではありませんでした。しかし「遊行三十一祖京畿御修行記」という史料から、確かに光秀は称念寺門前に長く暮らしていたらしいことが分かってきています。
また、松尾芭蕉も詩にした光秀の妻「煕子」の黒髪伝説は光秀が称念寺門前に暮らしていた当時のエピソードだったと言われてますね!この話の詳細も称念寺で知ることができます。
舟寄館跡/舟寄城跡(福井県坂井市)
称念寺の北500m程の場所にある舟寄館は朝倉阻止景の家臣・黒坂備中守景久の館跡。
江戸時代前期の軍学者・儒学者である山鹿素行の「武家事記」には明智光秀は黒坂備中守景久に仕えた跡に細川藤孝に仕え、その後足利義昭に仕えたという記載があります。この記載を信じれば明智光秀は朝倉義景ではなく黒坂備中守景久に仕えていたことになりますね。
長く門前に住んだという称念寺に近いことから、あり得ない話じゃありません。光秀の前半生を知る上で今後注目される場所かもしれませんね。
明智神社(福井県福井市)
明智神社は一乗谷の西にある明智光秀を奉った神社。
光秀は一時期この辺りに暮らしていて、そのときガラシャも生まれたと言われています。また後年(1573年)織田軍が越前を攻めた際、多くの村々が焼き払われたのですが・・・なぜかこの地域の住人は大きな被害を受けずに済みました。その理由が、光秀がここにかつて暮らしていたためとも言われているのです。
ちなみにこの地域では明智光秀は親しみを込めて「あけっつぁま」と呼ばれているそうです。
一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)
一乗谷は戦国大名・朝倉氏が100年以上に渡って拠点とした場所ですね。
確かな史料は存在しませんが、美濃から越前に落ち延びた光秀は一時期朝倉家に仕えていたとも言われています。もしそれが事実なら光秀もここ一乗谷に住んでいた、または出入りしていた時期があったかもしれません。
朝倉氏は天正元年(1573年)に織田信長によって滅ぼされてしまいますが、一乗谷には現在でも朝倉氏統治時代の遺構が数多く残っています。国の特別名勝に指定された日本庭園も4つ存在し、戦国時代の城下町の姿を垣間見ることができます。
朝倉義景公墓所(福井県大野市)
朝倉氏最後の当主となった朝倉義景の墓所です。
明智光秀が朝倉家に仕えていた確かな史料は存在しませんが、もし仕えていたとすれば朝倉義景が当主だった時代と考えられます。
天正元年(1573年)、朝倉義景は近江に侵攻した織田軍に対して軍を送りますが、奇襲を受けて退却することに。しかしその退却を読んでいた織田軍の徹底的な追撃を受け、多くの将兵が討ち取られてしまいます。義景も越前大野郡まで逃れて体制を立て直そうとしますが、最後は一族の景鏡の裏切りに遭い、非業の最期を遂げました。
そんな最期を遂げた場所の近くに墓所が残されています。
金ヶ崎城跡(福井県敦賀市)
福井県敦賀市にある金ヶ崎城は南北朝時代にも激しいあった場所ですが、戦国時代にも有名な「金ヶ崎の退き口」の舞台となりました。
元亀元年(1570年)、朝倉攻めのために越前に攻め込んだ織田軍は金ヶ崎城を落としますが、直後に浅井氏の裏切りに遭い撤退を余儀なくされます。この撤退戦が「金ヶ崎の退き口」ですね。撤退にあたり、金ヶ崎城には秀吉や光秀が残って殿を務めました。光秀達は殿の役割を見事に務め、信長は京へ無事帰還に成功しています。
現在金ヶ崎城の麓には「金崎宮」が建てられているのですが、金崎宮はこうした逸話から「難関突破」の御利益があると言われてますね。
まとめ
というわけで福井県内の明智光秀ゆかりの地を実際に訪れてまとめてみました。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも光秀が美濃から越前に落ち延び、越前で暮らしていた当時が描かれる可能性がありますし、そんな中で今回紹介した地が登場するかもしれません。
確かな史料が存在しない時代ではありますが、越前にいた頃の光秀がどのように描かれるか?楽しみですね。