こんにちは!ZIGです。
今回は京都市山科区にある明智光秀胴塚を訪れたので紹介します。
明智光秀胴塚は光秀が討たれたと言われる小栗栖のほど近くにあり、名前の通り光秀の胴体が埋められていると伝えられています。
明智光秀胴塚について
明智光秀胴塚はその名前から分かるとおり、光秀の胴体を埋葬したと伝わる塚です。
本能寺の変で信長を討った光秀はその後山崎の戦いで秀吉に敗北。
戦いに敗れた光秀は坂本城に逃れようとしますが、その道中の醍醐または山科あたりで討ち取られたといわれています(よく名前が出る小栗栖も醍醐周辺ですね)。落ち武者狩りに遭ったとも、周辺を拠点としていた武士集団に襲撃されたとも言われてますが、何にしても光秀はこのあたりで命を落とし、首は本能寺へと届けられました。
その後光秀の首は胴体とつなぎ合わされ、粟田口で磔にして晒されたという記録が残っています。
そうして一度はつなぎ合わされた胴体が何故かここに埋まっている・・・ということになるわけですね。
明智光秀胴塚アクセス
明智光秀胴塚は明智藪から北東1.5kmほどの場所にあります。
なので明智藪に訪れたら併せて見に行ってみると良いですね。歩くと20分程度でたどり着きます。
ただ、胴塚は結構分かりにくい場所にあるので要注意。
私は車で移動しましたが、最初は全く見つけられずに通り過ぎてしまいました(汗
塚そのものは道路沿いにあるのですが、見落としやすいので注意です。
専用の駐車場はないので注意
胴塚には専用の駐車場はありません。
なのでどちらかと言えば徒歩でアクセスする方がスムーズですね。胴塚自体もちょっと分かりにくい場所にあるので、車だと見落とす可能性が結構高いです。
例えば明智藪を見た後で胴塚を訪れるなら明智藪周辺に車を止めておいて、歩いて胴塚まで行くのも手段ですね。明智藪周辺の駐車場については以下の記事を参考にして下さい。
山科区に残る明智光秀の胴塚
というわけで明智光秀の胴塚、実際に訪れてみました。
この時は明智藪・本経寺・小栗栖八幡宮を訪れた後に胴塚を見に行きました。
新小栗栖街道を北へ1kmほど進んでいくと、左手にぶどうの直売所が見えてきます。
ここが目印ですね。
実は上記の写真に胴塚も写っています。
どこかと言いますと・・・
ここがそうですね。
私は最初、全く気がつかずに通り過ぎました(汗
一度完全に通り過ぎてしまい、もう一度前を通ってようやく発見。
専用の駐車場もないので申し訳ないのですが少し路上駐車させてもらい、自動販売機で飲み物を買う体にして胴塚を確認しました。
こちらが胴塚になります。
石碑には「明智光秀之塚」と彫られていて、胴塚という記載はありませんでした。
裏面には昭和45年に建てられたと書かれていて、上部の石碑自体は比較的新しいものという事が分かります。
ただ、土台部分はそれより古い印象ですね。
なので塚そのものは昔からあったということでしょう。
いつ頃から存在していたのか少し調べてみましたが、ハッキリしたことは分かりませんでした。
ちなみに「兼見卿記」や「言経卿記」には光秀の首が粟田口あたりに埋められ、塚が作られた事は書かれてますが、胴体が山科に別に埋葬されて塚が作られたという話は出てきません。
まあつなぎ合わせて磔にされたという話なので、胴体も一緒に埋葬されたと考えるのが普通ですよね。
しかし、何故か胴塚は粟田口からずいぶん離れた場所にあります。粟田口処刑場跡からの距離を確認してみても5~6kmくらい離れてました。徒歩ならば1時間以上かかります。
わざわざ胴体だけ討ち取られた場所の近くまで持ってきて埋葬する・・・というのも不自然な話ではありますね。
ただ、首と胴をつなぎ合わせて磔にした・・・という話を読んで正直疑問に思った事がありまして。
つなぎ合わせた胴体ってホントに光秀のものだったんでしょうか?(汗
磔にするために年齢や背格好の近い胴体とつなぎ合わせただけ・・・なんてこともあり得るんじゃないでしょうか。そう考えると本当の光秀の胴体はここに埋葬されていて・・・なんてこともあり得るか?とも思いました。
ま、しかしこれは何の根拠も無い妄想ですね(笑
普通に考えれば供養のために光秀が討ち取られたと言われる場所付近に後から塚を作った、と考える方が自然な感じですね。
まとめ
というわけで明智光秀胴塚を紹介しました。
胴塚は明智藪からもさほど離れていないので、併せて訪れてみると良いんじゃないかと思います。
ちょっと分かりにくい場所にある点、駐車場がない点は要注意ですね。