【17選】京都・兵庫の明智光秀ゆかりの地まとめ!後半生の光秀の足跡を辿ろう

京都&兵庫の明智光秀ゆかりの地まとめ

こんにちは!ZIGです。

ここでは京都府および兵庫県の明智光秀ゆかりの地をまとめて紹介しています。

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」主人公・明智光秀と京都・兵庫は後半生において非常に縁の深い土地。丹波攻略の舞台であり、終焉の地でもあります。そんな京都・兵庫の光秀ゆかりの地を実際に巡ってまとめました。

「麒麟がくる」で登場する場所もあると思うので、ドラマが楽しみな方も是非ご覧下さい♪

【17選】京都・兵庫の明智光秀ゆかりの地

福知山城(京都府福知山市)

福知山城天主

丹波平定後、丹波統治の拠点のひとつとなったのが福知山城。光秀の城として最も有名な城ですね。

重要な拠点だったため城代には重臣の明智秀満を入れました。

元々ここには丹波国人の建てた横山城という城がありましたが、光秀は丹波平定後に名を「福知山城」と改名。近世城郭へと修築しました。その際近隣の墓石や石塔を天主の石垣に使ったといわれていて、今も石垣には無数の転用石が残っていることが知られています。

福知山城天主

御霊神社(京都府福知山市)

福知山の御霊神社

御霊神社は福知山城下町の北西に位置する神社。

この神社には五穀豊穣・商売繁盛の神である宇賀御霊大神と共に明智光秀公が合祀されています。

光秀は福知山に城下町を造るにあたって地子銭を免除したり、氾濫を繰り返していた由良川の治水工事を行うなど善政を行った事が知られています。そのため今でも福知山では光秀が深く慕われていて、毎年10月には「丹波光秀ききょう祭」が盛大に開催されているのです。

福知山の御霊神社

丹波亀山城(京都府亀岡市)

南郷公園の明智光秀公像

丹波亀山城は光秀が丹波攻略・統治の拠点として築いた城。

現在は大半の遺構が失われていますが、復元された天守台の石垣を見ることができます。石垣の一部は光秀が築城した当時のものが残っているとも言われてますね。また、石垣に残る天下普請の際の刻印も見どころの一つ。

ちなみに本能寺の変を起こした際、光秀がこの城から出陣したのはあまりに有名な話ですね。

南郷公園の明智光秀公像

谷性寺(京都府亀岡市)

谷性寺

谷性寺は丹波亀山城からも近く、不動明王を祀る寺院。

光秀が不動明王を厚く崇敬していたことはよく知られてますね。そうした縁もあるのか山崎の戦い後、境内に光秀の墓碑が建立されました。江戸時代には光秀を慕う志士が谷性寺を訪れ、光秀公の首塚を残したと伝わります。この首塚は今も残されてますね。

また亀山城下にあった西願寺の山門が移築されており、こちらは明智山門と呼ばれています。

谷性寺

本能寺(京都市中京区)

本能寺

「本能寺の変」で非常に有名な本能寺ですが、現在の本能寺は事件の際とは別の場所に移築されています。

しかし境内には信長を祀る「信長公廟」と、本能寺の変で命を落とした人々の供養塔が今も残されています。また境内にある大賓殿宝物館では本能寺に残されている宝物が多数展示されているのでこちらも必見です。

本能寺

本能寺跡(京都市中京区)

本能寺跡碑

本能寺の変当時、本能寺があった場所。まさに歴史的事件が起きた場所です。

現在本能寺跡には建物が建っているため当時を偲ぶ遺構は何も残っていませんが、本能寺がこの場所にあったことを示す石碑が残されています。また、本能寺近隣には南蛮寺跡の石碑も残されており、宣教師達はここで本能寺の顛末を見ていたといわれてますね。

本能寺跡碑

本圀寺(京都市山科区)

本圀寺大本堂および本師堂

本圀寺はかつて「六条合戦(本圀寺の変)」の舞台となった寺院。

六条合戦は本圀寺を仮御所にしていた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した事件ですね。本圀寺はさほど堅固ではなく、さらに将軍を守る戦力も乏しい状況でしたが、なんとか陥落を免れます。そんな劣勢の戦いの中で足利義昭を守って戦った者のひとりがまだ無名の明智光秀でした。

この戦いの後、光秀は歴史の表舞台に立っていくのです。

なお現在本圀寺は京都市山科区にありますが、当時は京都市下京区にありました。詳細は以下の記事をご覧下さい。

本圀寺大本堂および本師堂

勝竜寺城(京都府長岡京市)

勝竜寺城公園

勝竜寺城は明智光秀の盟友・細川藤孝の居城として知られています。

また光秀の娘、ガラシャ(玉)が藤孝の嫡男・忠興に嫁いだのもこの城でした。2年ほどの間ではありますが、二人はこの城で幸せに暮らしたと言われています。現在は本丸・沼田丸が公園として整備されており、当時の遺構も一部ですが確認出来るようになっています。

ちなみに後年、光秀が山崎の戦いで敗れた後、一時的に立て籠もったのもこの城ですね。光秀は夜半に勝竜寺城を抜け出して坂本城を目指しましたが、その途中で命を落としました。

勝龍寺城

恵解山古墳(京都府長岡京市)

恵解山古墳

恵解山古墳は勝竜寺城にほど近い場所にある古墳時代中期の古墳。

この古墳からは火縄銃の弾や大きな堀跡が見つかっており、山崎の戦いの際に光秀が本陣を置いた「御坊塚」ではないかと言われてます。なお、この近くにはもう一つの御坊塚候補である「境野一号墳」も存在し、こちらも火縄銃の弾や堀跡が確認されています。

いずれが御坊塚なのか答えは出ていませんが、勝竜寺城と併せて訪れて見てはいかがでしょうか?

恵解山古墳



明智光秀首塚(京都市東山区)

明智光秀首塚

三条白川筋にひっそりと残る明智光秀公の首塚です。

当時の公家の日記によれば、光秀と斎藤利三の首は粟田口の東に首塚を作って埋葬されたそうです。現在の蹴上付近といわれてますね。その後光秀の子孫という能楽師が首塚のあった屋敷を買取り、現在の場所に移されたとのこと。

光秀の首塚は複数存在していますが、実際に首が埋葬されているのはこの場所が可能性が高いと言われています。

明智光秀首塚

明智光秀胴塚(京都市山科区)

明智光秀胴塚

明智光秀の胴体を埋葬したと言われる塚です。

明智光秀は山崎の戦いで敗れた後、坂本城へ逃れようとしましたがその途中で討ち取られたと言われてますね。討たれたのは山科あたりと言われてますが、胴塚はちょうどその山科区に立っています。

明智光秀胴塚

明智藪(京都市伏見区)

明智藪

坂本城へ逃れる途中、明智光秀が討たれた場所だと言われる明智藪。

現在この場所には石碑が建てられています。なお、光秀が小栗栖の明智藪で討たれたという話は後世の軍記物などで見られる話で、当時の公家の日記などには記されていません。この周辺で討たれた事は事実と考えられますが、まさにこの場所だったのかは定かではないようです。

明智藪

小栗栖城(京都市伏見区)

小栗栖八幡宮

明智藪からほど近い場所にある小栗栖八幡宮には戦国時代に飯田姓の一党が治めていた屋敷があったと言われています。

明智藪に建てられた石碑によると飯田一党は小栗栖で明智光秀を襲撃し、討ち取ったとされています。真偽は定かではありませんが、この地に飯田姓の一党が存在したことは事実のようです。

小栗栖八幡宮

本経寺(京都市伏見区)

本経寺

本経寺は光秀が討たれたという明智藪の近くに建つ日蓮本宗の寺院。

本経寺の境内には明智光秀の供養塔が建てられています。ちなみに明智藪も本経寺の寺領となっているとのことで、明智藪の管理もしているのかもしれません。

本経寺

盛林寺(京都府宮津市)

盛林寺の山門

盛林寺は丹後を平定した後に細川藤孝が居城とした宮津城の近くに立つ曹洞宗の寺院。

元々丹後を支配していた一色氏の重臣・小倉播磨守が菩提寺として築いた寺院ですが、細川藤孝にも厚く保護を受け、関係は良好だったようです。そんな盛林寺にはガラシャ(玉)によって作られたという光秀の首塚が今も残されています。

盛林寺の山門

黒井城(兵庫県丹波市)

黒井城跡碑

黒井城は「丹波の赤鬼」「悪右衛門」の異名を持つ赤井(萩野)直正の居城。

丹波平定後は斎藤利三が城主となった事でも知られてますね。

赤井直正は光秀の丹波攻めにおいて光秀を最も苦しめた存在。「赤井の呼び込み戦法」で一度は光秀の軍を退けています。そんな戦いの舞台となった黒井城は現在登山道が整備され、山頂の主郭部には当時のものと思われる石垣がしっかり残されてます。

黒井城跡碑

八上城(兵庫県丹波篠山市)

八上城本丸跡の石碑

八上城は丹波国人・波多野秀治の居城。

波多野秀治は赤井直正と共に明智光秀の丹波攻略に敵対し、抵抗した事が知られています。そんな波多野秀治の居城である八上城は1年にわたる兵糧攻めを受けて落城しました。波多野秀治もその後処刑されています。

現在は登山道が整備され、山頂の遺構が良く確認できるようになっています。八上城は中世城郭の典型的な姿を今に残していると言われ、史跡としての価値も高いといわれてますね。

八上城本丸跡の石碑

 

まとめ

というわけで京都・兵庫の明智光秀ゆかりの地をまとめました。

今回は丹波攻略に関連したゆかりの地をまとめたかったので敢えて京都と兵庫を合わせてまとめる形を取りました。光秀が5年近いね月を費やして成し遂げた丹波平定はやはり光秀の足跡を辿る上で欠かせませんしね♪

丹波平定や本能寺の変は2020年大河ドラマ「麒麟がくる」でも後半でしっかり取り上げられるでしょうし、予習も兼ねて現地を回ってみるとよりドラマを楽しめるはずです!

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