こんにちは!ZIGです。
今回は明智光秀公の墓という言い伝えが残る「桔梗塚」に行ってきました。
山崎の戦いから落ち延び、天海となった説もある光秀ですが、また違った生存説がこの桔梗塚には残されています。
目次
桔梗塚について
岐阜県山県市中洞にある「桔梗塚」は明智光秀公の墓とされています。
明智光秀は1582年、山崎の戦いで命を落としたと言われてますね。実はそのとき討たれたのは影武者の「荒木山城守行信」という人物で、光秀は落ち延び、西洞寺の林間に隠れ住んだという言い伝えが残っているのだそうです。
そして光秀は身代わりとなった荒木山城守行信の忠義に深く感謝し、名前を「荒深小五郎」と変えました。
その後光秀は雲水の姿となって諸国遍歴の旅に出ますが、18年後の慶長5年、関ヶ原の戦いに際し東軍に味方しようと出陣。しかし関ヶ原に向かう途中、根尾村の藪川で馬と共に流されて亡くなってしまいます。
その亡骸は荒木山城守行信の子供に当たる吉兵衛が村へ持ち帰り、埋葬しました。
・・・という経緯で残っているのが桔梗塚。ここでは今でも年2回、供養祭が行われているんだそうです。
桔梗塚アクセス
桔梗塚はかなり場所が分かりにくいです(汗
地図だと国道256号線沿いにあるように見えますが、国道から直接は行けません。
国道256号線を南から北へ向かい、美山第一トンネルを抜けた直後に右折出来る道があるのでそこを右折。あとは看板が出ているのでたどり着けるはずです。見落としやすいのは国道から右折する場所ですね。
駐車スペースあり
桔梗塚の横には白山神社があるのですが、そこに車数台程度であれば駐められるスペースがあります。
おそらくは白山神社の駐車スペースですが、桔梗塚を訪れるなら使用しても問題ないでしょう。
国道256号線から桔梗塚へ
岐阜市から北へ256号線を走っていくと、「美山大橋北」という信号があり、その後「美山第一トンネル」があります。
トンネルを抜けた後すぐに右に入れる道があるので右折。ここは信号はありません。
右折して住宅地に入ると看板が目に入ります。

鴨バーベキューの看板が目立ちますが、そちらではありません(笑
その上に「明智光秀公の墓」という看板がありますね!案内通り左へ曲がります。
左折すると国道256号線の下をトンネルが通っています。

かなり狭いトンネルです。車でのすれ違いはどう考えても無理なので対向車に注意。
トンネルを抜けるとすぐに白山神社が見えてきます。
白山神社

白山神社は小さな神社でした。数台程度なら車が止められそうなスペースが合ったのでそこに駐車。
ちなみにこの付近には白山神社がもう一つあります。ナビで白山神社を検索するとそちらが出てきてしまう可能性が高いので注意してください。
私は最初そちらの白山神社に間違って行ってしまいました(汗
光秀公ゆかりの産湯の井戸後

白山神社の目の前に「光秀公ゆかりの産湯の井戸」があります。
光秀はここ中洞で生まれたという言い伝えがあるらしいです。土岐四郎基頼(元頼)と地元の豪族・中洞源左衛門の娘との間に生まれ、その後明智城主・明智光綱の養子となったという説なんだとか。
そのため産湯の井戸もあるんですね。
桔梗塚

産湯の井戸の向かって左手に桔梗塚への道があります。
看板やのぼりが建っているので見落とすことはまず無いでしょう。
少し歩いて右にカーブした先に桔梗塚があります。

桔梗塚は林の中、静かな場所にありました。
向かって左手に見える石塔と五輪の塔が明智光秀の墓だそうです。
確かに石塔の方に「惟任日向守光秀公」の文字が彫られていますね。

こうして生存説が残っているというのは、やっぱり明智光秀が多くの人から慕われていた証拠なのかも知れませんね。
荒深小五郎の最後について思ったこと
しかし光秀こと荒深小五郎さん、諸国遍歴した上で関ヶ原の戦いにも参戦しようとするとかすさまじく元気ですね(笑
光秀は山崎の戦いの時に55歳だったと言われてるので、関ヶ原の戦いの頃は既に73歳ということになります。流石に戦は無理があるでしょ・・・そりゃ洪水に流されたって仕方ありません。
ちなみに言い伝えで残ってる藪川ってどこなんだろう?と思って調べて見たら根尾川の事らしいですね。調べて見ると分かりますが、結構関ヶ原まで距離があります。
なので村から出てそう遠くまで行かないうちに川に流されてお亡くなりになった・・・という事みたい。せっかく生き延びたのにあっけない最後って感じです。
しかし、逆にそういう「あっけなさ」が実話っぽくも感じちゃいますね。
まとめ
というわけで桔梗塚を紹介しました!
岐阜県内には明智光秀ゆかりの地も多いので、そのひとつとして桔梗塚も訪れてみると良いんじゃないかと思います。
この近くには美濃守護の土岐氏が居城とした大桑城跡もあるので、一緒に回ってみるのも手ですね♪