十兵衛屋敷跡 | 口伝と古文書に残る光秀の出生地(滋賀県多賀町)

十兵衛屋敷跡

こんにちは!ZIGです。

今回は滋賀県犬上群多賀町にある「十兵衛屋敷跡」を訪れたので紹介します。

「十兵衛」はもちろん明智光秀のことですね!岐阜県内には生誕地と言われる場所が複数残っている光秀ですが、それ以外の出生地候補は珍しい・・・ということで実際に現地に行ってみました♪

十兵衛屋敷跡について

明智光秀が多賀町佐目で生まれ、住んでいたという話は「淡海温故録(おうみおんころく)」という地誌と、多賀町佐目に伝わる口伝が一致していることが根拠となっているそうです。

淡海温故録は近江の中世の土豪・寺社などの情報をまとめた地誌で、貞享年間(1684年~1688年)に書かれたものだと言われています。この淡海温故録には佐目に土岐氏の庶流にあたる明智十左衛門という人が住んでいて、その息子が明智十兵衛光秀であると書かれてるのです。

そして多賀町佐目には「十二相神社近くに光秀が住んでいた屋敷があった」という言い伝えがあるそうですね。

この言い伝えは光秀の「光(みつ)」の字をもらい、「見津」と書いて「けんつ」と読む一族にのみ口伝で伝えられてきたとのこと。

つまり口伝で伝わっている話と淡海温故録の記載がしっかり一致するわけですね。

そのため光秀は近江出身、多賀町佐目の出身なのではないか?という説になるわけです。

 

十兵衛屋敷跡アクセス

十兵衛屋敷跡
〒522-0322 滋賀県犬上郡多賀町大字佐目465

十兵衛屋敷跡は県道306号線沿い、十二相神社の近くにあります。

ただ、道路からは直接見えないので注意ですね。よく見てないと通り過ぎてしまいます。

多賀大社方面から十兵衛屋敷跡へ向かった場合は「多賀佐目簡易郵便局」が目印になります。郵便局を過ぎると道が大きく右にカーブするのですが、その直後に左手に駐車場が見えるので見逃さないようにして下さい。

所要時間の目安は車でアクセスする場合は彦根ICからおおよそ20分、多賀大社からおおよそ15分くらいですね。

 

ちなみに十兵衛屋敷跡周辺へはバスでもアクセスが可能っぽいです。大君ヶ畑線というバスが多賀大社からも出ていて、25分ほどで佐目まで行くことが出来るようでした。ただ、バスは1時間に一本くらいなので注意です。

 

駐車場あり

十兵衛屋敷跡は駐車場が用意されています!

十兵衛屋敷跡は十二相神社の目の前にあるので、十二相神社および十兵衛屋敷跡用の駐車場という形ですね。車数台程度なら駐車できるスペースがありました。

場所については後述するので参考にどうぞ。

 

 

明智光秀公口伝の地・十兵衛屋敷跡

というわけで十兵衛屋敷跡へ行ってきました!

 

県道306号線を東に向かっていき、多賀町佐目を目指します。

多賀町佐目に入ると左手に多賀佐目簡易郵便局が見え、そこを通り過ぎた後に道が大きく右へカーブします。

 

その後少し上り坂になるのですが、左手に「駐車場」の看板が見えてきました。

多賀町佐目の県道306号線

ここが駐車場への入口になってます。

 

 

拡大するとこんな感じ。

十二相神社・十兵衛屋敷跡の駐車場案内

十二相神社・十兵衛屋敷跡の文字が見えますね。

ちなみにその下に「大型車はトンネル公園へ」と書かれてますが、3ナンバーの車程度あればこちらの駐車場で大丈夫です。おそらくマイクロバスとかになってくるとこちらの駐車場は厳しいんじゃないか?って感じですね。

 

 

看板に従って左に曲がると、今度は右折の看板が目に入ります。

十二相神社・十兵衛屋敷跡の駐車場案内

案内に従ってすぐに右折ですね。

 

 

ちょっと細い道になりますが、この先の右手が駐車場になります。

十二相神社・十兵衛屋敷跡の駐車場案内

 

 

ここが駐車場ですね。

十二相神社・十兵衛屋敷跡の駐車場案内

実は306号線から直接左折で駐車場には入れるのですが、入口が見えにくいので先ほどの看板に従って駐車場へ向かう方がスムーズです。

 

 

駐車場に車を止めると、神社の鳥居が目に入りました。

十二相神社の鳥居

これが十二相神社の鳥居ですね。

 

鳥居をくぐって十二相神社へ向かいます。

十二相神社への道

十兵衛屋敷跡は十二相神社の前なので、まっすぐ歩いて行くと・・・

 

 

ありました。

道に面した左手の少し開けたスペース、ここが十兵衛屋敷跡になります。

十兵衛屋敷跡

当たり前といえば当たり前ですが、何にもない・・・ですね(笑

おそらくこの辺りに屋敷があったという事だと思われます。

 

奥の方に「明智光秀公 口伝の地 十兵衛屋敷跡」の碑が建てられてました。

十兵衛屋敷跡の碑

光秀近江出身説は最近になって出てきた話で、この碑も2019年になって建てられたらしいですね。

 

碑の反対側には看板が建てられてます。

十兵衛屋敷跡の看板

淡海温故録に関する解説看板ですね。

ちなみに看板下の花壇にはしっかり桔梗が植えられてました(笑

 

この看板には淡海温故録の光秀に関する部分の現代訳が書かれていて、ざっくりまとめると内容はこんな感じ。

淡海温故録の光秀に関する記載
  • 佐目に明智十左衛門が住んでいた
  • 明智十左衛門の2~3代前、つまり祖父か曾祖父は本国が美濃で、土岐成頼(しげより)に背いて浪人し、近江の六角高頼を頼って寄住した
  • 六角高頼は「明智は土岐氏の庶流で旧家だ」といって扶持米を与え、明智は2~3代に渡って佐目に住んだ
  • 十左衛門の息子十兵衛光秀は器量に優れ、越前に行って朝倉義景に仕えた
  • 朝倉義景からは二十貫を賜って屋敷も与えられた
  • 大黒天を拾った逸話
  • 義景に暇をもらって尾張国へ行き、信長に仕えて出世した
  • 不意に思い立って甲斐武田家と陰謀を図ったけど先に武田家が滅びた
  • 家康の饗応の不備を理由に信長に足蹴にされ、陰謀がバレてたに違いない!と謀反を決意して速攻で実行

 

・・・はい。後半の光秀の無計画ぶりがすさまじいですね(爆

不意に思い立って陰謀を図ったとか(汗

ただ確かに甲陽軍鑑には天正10年2月時点で光秀が謀反を計画してて、勝頼を誘ってるっぽい記載があるんですよね。その話を踏まえた内容なのかもしれません。

 

ちなみに淡海温故録では光秀が大黒天を拾った話が妙に長く書かれてました。

光秀は越前へ向かう途中で大黒天の像を拾います。

朝倉家に仕えた後、拾った大黒天を親しい人に見せたら「大黒天を拾うと千人の頭になれると言われているから、あなたはそのうち取り立てられて大将になれるだろう」と言われたみたいですね。しかしその話を聞いて「私は千人の頭など全く興味が無い。拝んでその程度なら意味もない」といって大黒天はまた川に流してしまうのでした。

そして朝倉家ではそれ以上の出世が望めないと判断したのか?朝倉家には暇を願い出ます。

そして尾張の国に行って信長に仕えたって話ですね。

 

光秀、大黒天に対して実に容赦ない仕打ちです(爆

 

 

・・・ちなみにこの話、どこかで聞いた事がありますよね?

後で調べて見たらこの逸話は山鹿語類や名将言行録に書かれてるらしいです。山鹿語類は寛文5年(1665年)に成立した書物とのこと。名将言行録は明治2年(1869年)に完成。館林藩士の岡谷繁実が15年かけて制作したとのことでした。

逸話の真偽は確かめようがありませんが、淡海温故録と割と近い年代に作られた山鹿語類にも同じ逸話がある事を考えると、割と当時は知られたエピソードだったのかもしれませんね。

 

 

十二相神社

十兵衛屋敷跡と一緒に十二相神社も見てきました。

 

十二相神社は創建年がハッキリしないそうですが、境内には樹齢500年から1000年とも言われる杉の巨木が複数残されています。

十二相神社境内

石段の左右に立っているのがそれですね。

ちょっと上の写真では被っちゃってますが、向かって右手の奥に立っている杉が一番デカかったように思います。

ちなみにこれ以外にもいくつか巨木がありました。デカすぎて写真に収まりません(汗

 

こちらが社殿です、が・・・

十二相神社の社

何故か手前に竈が作られてました(汗

何故こんなところに・・・??

 

ちなみに十二祖神社の主祭神は小彦名命(すくなひこなのみこと)。

身体が小さくて忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たったとされる神様なのですが、意外と祀られている神社が少ないなんて話を聞いたことがありますね。

 

まとめ

というわけで十兵衛屋敷跡をしました!

光秀近江出身説と聞いて「イヤそれは流石にないんじゃないの・・・?」と思ったのですが、史料や口伝が残ってるとなると頭から否定も出来ませんよね。生まれた場所自体は美濃(岐阜)じゃなかった・・・なんてこともあるいはあり得るのかもしれません。

未だに明智光秀の出生地は確定してませんし、今後新たな史料が見つかるのを期待したいところですね。

 

 

 
十兵衛屋敷跡

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