本圀寺 | 六条合戦の舞台となった日蓮宗の大本山(京都市山科区)

本圀寺大本堂および本師堂

こんにちは!ZIGです。

今回は京都市山科区にある「本圀寺」を紹介します。

本圀寺は日蓮宗の大本山ですが、戦国時代に「本圀寺の変(六条合戦)」の舞台となったことが知られてますね。この事件、織田政権で活躍する以前の明智光秀も現場にいたという話を知り、実際に現地を訪れてみました。

本圀寺について

本圀寺は日蓮宗の大本山として知られてますね。

同じく日蓮宗の久遠寺が「東の祖山」と呼ばれるのに対し、本圀寺は「西の祖山」とも呼ばれるそうです。

本圀寺は日蓮宗の宗祖・日蓮が建長5年(1253年)に鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が始まりとされてます。その後貞和元年(1345年)に第4世・日静が光明天皇から寺地を賜り、京都の六城堀川に移転しました。

戦国時代、そんな本圀寺で起きたのが「本圀寺の変」ですね。

永禄11年(1568年)、本圀寺は上洛を果たして15代将軍となった足利義昭の仮御所(六条御所)となります。

本圀寺の変が起きたのはその翌年の永禄12年1月5日。前将軍(14代将軍・義栄)を推していた三好三人衆が足利義昭の命を狙って本圀寺を襲撃したのです。この戦いは信長公記にも「六条合戦」という名前で記録が残っており、六条御所を守っていた者の中に明智光秀の名前もありますね。

このあたりの詳細は後半でまとめます。

その後本圀寺は色々とあって(調べたら実にややこしい問題だったのでここでは省略します笑)六城堀川の地を売却。昭和46年(1971年)に山科に移転します。現在本圀寺がある場所ですね。なので本圀寺は今も存在しているのですが、「本圀寺の変」が起きた当時とは別の場所に建っているというわけです。

私はそれを実際に訪れて初めて知りました(汗

 

本圀寺アクセス

本圀寺
〒607-8403 京都府京都市山科区御陵大岩6

本告示は京都市山科区、天智天皇陵古墳の北側に位置しています。

駐車場もあるので車でのアクセスも可能ですが、ハッキリ言って本圀寺へ車で行くのはおすすめしません。

もう一度言います。本圀寺へ車で行くのはおすすめしません(笑

何故かというと本圀寺への道が恐ろしく狭いため。ちょっと狭いとかそういう次元では無く、マジで途中の道が細過ぎて怖いです。対向車が来てしまったら確実に詰むレベル。運転が得意じゃない方・大型の車に乗っている方は確実におすすめしません。

なので車はどこかコインパーキングに駐めるか、公共の交通機関を使った方が無難でしょう。

公共交通機関を使う場合は京都京津線「御陵駅」から徒歩10本ほど。もしくは地下鉄東西線「御陵駅」から10分ほどで付ける距離です。

バスでのアクセスも可能で、京阪バス「御陵」停留所から徒歩10分ほどでアクセス可能です。

 

駐車場有り

本圀寺は専用の駐車場があるので、車でのアクセスも可能です。

・・・が、先ほど書いた通り本圀寺に至るまでの道が恐ろしく狭いので、正直車でのアクセスはあまりおすすめしません。

私は車でアクセスしましたが、もし次回行く機会があるのなら絶対車は使わないと決めてます(汗

 

 

大光山本圀寺

というわけで本圀寺に行ってきました!

 

はい、とりあえず車でアクセスしたのですがあまりの道の狭さに泣きたくなりました(泣

以下は帰りに撮った写真ですが、本圀寺近くの道です。

本圀寺への道

ここも車一台ようやく通れる位の幅で、歩行者がいたらすれ違いはおそらく出来ません。

しかしこれでもまだ広い方で、途中にもっと狭い場所がありました(汗

なので対向車が来ない事をひたすら願いつつ、本圀寺を目指しました・・・

 

総門要付関

本圀寺・総門要付関

本圀寺の総門前にはやたら書体がカッコイイ石碑が建ってました。

こんなにカッコイイ書体を見たのは初めてかもしれません(笑

 

こちらが総門ですね。

本圀寺・総門要付関

もしかしたら柱はコンクリ製かもしれません。

実は本圀寺って本堂も鉄筋コンクリート製なんですよね。そちらと同じような質感でした。

 

開運門(赤門)

本圀寺・開運門

総門を通り過ぎるとまもなく開運門、通称「赤門」があります。

この山門の手前に駐車スペースがあるので、車で来た場合はここで車を降りて境内に入る形ですね。

この開運門は文禄元年(1592年)に加藤清正が寄進し、平成7年に修復・復元されたものなんだそうです。加藤清正の出生にあやかって開運門という名前が付いてるみたいですね。

 

鐘楼

本圀寺・鐘楼

開運門を抜けて境内に入ると、右手に鐘楼があります。

この鐘は鐘は文禄2年(1593年)に秀吉の姉・日秀尼が寄進したものとのこと。先ほどの開運門といい、秀吉との繋がりが結構ある寺院みたいですね。

 

九名大尊神堂

本圀寺・九名大尊神堂

境内に入って左手には「九名大尊神」と書かれた扁額のある小さなお堂があります。

九名(くみょう)様という神様が祀られていて、なにやら「がん封じ」などの御利益もあるとのこと。

 

経蔵

本圀寺・経蔵

九名大尊神堂の上には経蔵があります。

一切経(仏教のすべてのお経という意味)が治められていて、ここは国の重要文化財になってるとのことでした。

将軍足利義政が寛政5年(1464年)に帰依して高麗版の一切経を寄進し、経蔵を建てたそうです。

 

仁王門

本圀寺・三門

九名大尊神堂・経蔵の前を歩いて行くと左手に仁王門があります。

 

名前の通り仁王像が安置されてますね。

本圀寺・三門の仁王像

金色が目立つ仁王像ですね-。

実はこの仁王像、以前は全身金色だったらしいです。今は黒基調になってますが、ちょっと全身金色状態も見てみたかったですね(笑

 

大本堂

本圀寺・大本堂

仁王門を抜けると正面に大本堂があります。

先ほど少し触れたとおり、この本堂は鉄筋コンクリートだそうです。確かに木造の本堂とは全く違う印象を受ける・・・というか、どこか寺院っぽく無い雰囲気を感じさせます。

本堂正面はフェンスが貼られていて入れないようになってますが、社務所側から入ることができるとのことでした。

 

大本堂の前には宗祖・日蓮聖人の像もありました。

本圀寺・日蓮上人像

 

本師堂

本圀寺・本師堂

大本堂の向かって右手には本師堂があります。

本師堂には日蓮聖人が亡くなるまで肌身離さず持っていたという「閻浮第一立像釈迦牟尼世尊」が祀られているとのこと。

こちらも正面はフェンスがあって直接は入れないようになってました。

 

清正宮

大本堂・大師堂の裏手には清正宮があります。

本圀寺・清正宮の鳥居

なんとも目を引く鳥居です・・・(笑

清正宮は加藤清正公の生前墓。建物は清正の娘に当たる瑤林尼が建てたそうですが、墓自体はそれよりも前に作られていたものだそうです。朝鮮出兵の際には両親の遺骨、自身の肉や歯、髪の毛を納めたなんて話もあるんだとか。

遺骨や髪の毛はまだ分かりますが、肉や歯ってどうやって納めたんでしょう・・・(汗

 

こちらが清正公廟ですね。

本圀寺・清正宮

清正公は開運勝利の神「せいしょこさま」として祀られているそうです。

 

いやしかし、清正宮の金ピカ具合はひと味違います。石段横の岩まで金色ですよ・・・

本圀寺・清正宮前の岩

これってこういう色の岩なんでしょうか?(汗

 

二天門・勅使門

本圀寺・二天門と勅使門

こちらは境内奥にあった二天門と勅使門。

二天門は名前の通り門の左右に像が置かれているのが確認出来ますね。

このあたりは柵があって入れないようになっていました。

 

・・・とまあそんな感じで境内を一回り。

それほど境内は広大ではないので見て回るだけならあまり時間もかかりません。

とりあえず、金色が目立つ寺院だな!というのが何よりの印象でした(笑

 

人形塚

本圀寺・人形塚

行きは道が狭い事ばかり気になって素通りしてしまったのですが、総門を出たところに人形塚という塚がありました。

後で調べて見たら本圀寺では2月・6月・11月に人形供養会を行っているそうです。この塚はそのためのもののようですね。

 

 

本圀寺の変(六条合戦)について

ここからは今回私が本圀寺を訪れたきっかけになった「本圀寺の変(六条合戦)」についてまとめておきます。

先ほども少し触れたとおり、「本圀寺の変」は本圀寺を仮御所にして滞在していた足利義昭を狙って三好三人衆が襲撃をしかけた事件であり、信長公記に初めて明智光秀の名前が記された事件でもあります。

 

本圀寺の変の4年前、三好三人衆は第13代将軍・足利義輝を討ってるんですよね。その後14代将軍として義栄を擁立しています。

しかし松永久秀と対立したりしている内に織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて上洛を開始。三好三人衆は上洛軍に対抗しますが、結局上洛を阻むことは出来ず、畿内での勢力を失って阿波へ退くことになります。そして義昭が第15代将軍となるわけですね。

なので三好三人衆からしたら義昭が将軍になったことは当然面白くありません。

 

そんなわけで三好三人衆は信長が美濃へと戻った隙を狙い、義昭のいる本圀寺を襲撃します。

本圀寺はさほど堅固ではなかった上、戦力差も歴然でした。しかし明智光秀や近江・若狭の国衆たちの奮戦で本圀寺は陥落を免れ、義昭も命を繋ぎます。本圀寺襲撃の報告を受けた信長も本来3日かかる道程を2日で京都に到着し、六条御所へと駆けました(既に戦いは終わっていたっぽですが)。

信長公記では六条合戦で「池田清貧斎は天下に面目をほどこした」と池田清貧斎に恩賞を与えた事が記されてますが、籠城した他の者たちにももちろん功績があったはず。明智光秀もその一人でしょう。

この戦い以降、明智光秀の名前が様々な書状に見られるようになっていくので、この戦いの功績によって取り立てられた可能性は高いですね。

 

 

・・・とまあそんな訳で明智光秀も戦っていた、ってところから実際現地を訪れてみようと思った次第です。

しかし、訪れてみて初めて「将軍が御所としたわりにはずいぶん京都市内から外れた場所にあるな・・・」と感じ、そこでようやく本圀寺が当時と違う場所にあることを知りました(笑

本圀寺の変当時はやっぱり京都市内にあったんですね。

 

本圀寺があった場所

当時本圀寺があった場所には現在西本願寺があります。

以下の場所ですね。

現在西本願寺があるエリア、そして西本願寺の駐車場および聞法会館があるエリアに本圀寺はありました。

なのでかなり広大な面積だったことが分かりますね。

 

西本願寺

こちらは西本願寺の阿弥陀堂門になります。

西本願寺・阿弥陀堂門

 

こちらは同じく西本願寺、阿弥陀堂ですね。

西本願寺・阿弥陀堂

東西42m、南北45m、高さ25mって話なのでかなりデカいです・・・

 

西本願寺は天正19年(1591年)にこの地に寺地の寄進を受け、大阪天満から移転しています。

この寄進された寺地というのが元々は本圀寺の寺地で、豊臣秀吉の命によって割譲されたものでした。

 

その後は先ほど書いた通り、昭和になって本圀寺が山科へ移転します。本願寺は旧本圀寺境内地も取得し、聞法会館を建設したわけですね。

 

以下が本願寺聞法会館です。

本願寺聞法会館

聞法会館は宿泊施設、つまりホテルですね。

 

そしてこちらが聞法会館の横に作られた西本願寺参拝者用の駐車場です。

西本願寺駐車場

ここもかなり広いですねー。

まさにこの辺りで光秀も戦っていたのかもしれません。

 

 

まとめ

というわけで本圀寺についてまとめました!

明智光秀と関係のある地を巡る中で訪れた本圀寺でしたが、ちょっと他の寺院とは印象が異なるお寺ですね。

とりあえず清正宮の金色具合は一見の価値ありでは!?と思います(笑