こんにちは!ZIGです。
今回は長野県諏訪市にある法華寺を紹介します!
法華寺は本能寺の変へ繋がる因縁のある場所とも言われている寺院ですね。
法華寺について
法華寺は諏訪大社本宮の神宮寺として造られた寺院のひとつ。
諏訪神社本宮の神宮寺はかなり栄えたみたいですが、明治維新後の廃仏毀釈で取り壊されてしまいました。しかし法華寺は取り壊しを免れたのか再建されたのか、現在もその姿を残しています。
天正10年(1582年)、織田信長は武田攻めを行った際に法華寺に陣を置いています。
信長が法華寺に陣を置いた時点で既に武田家当主・勝頼は討たれていたので武田征伐は終了しており、しばらく法華寺に陣を置いて論功行賞や酒宴が行われたと言われてますね。その席での光秀の何気ない一言で信長が激高し、光秀を殴打したって話があります。この出来事は本能寺の変のほんの2ヶ月ほど前の話で、この出来事が本能寺の変に繋がった・・・なんて言われたりもしますね。
ちなみにこのエピソードは祖父物語や川角太閤記などに記されてます。
そんなわけで信長・光秀因縁の地とも言われたりもしますね。
また、法華寺は赤穂浪士事件の後にこの地に流された吉良義周の墓が残されていることも知られてます。今回はこちらも併せて見てきました。
法華寺アクセス
法華寺は諏訪大社本宮の隣なんで、諏訪大社本宮を目印にすると分かりやすいですね。
ちなみに諏訪大社は本宮以外にも秋宮や春宮など複数の場所に存在するので、間違えないように注意。諏訪大社本宮へは中央道「諏訪IC」が最寄りのインターになります。
法華寺まではインターから10分程度ですね。
駐車場は諏訪大社本宮駐車場へ
法華寺の目の前には諏訪大社本宮の駐車場があるので、こちらを利用するとよいでしょう。
結構なスペースがあるので車が止められないって事は基本的にはありません。
鷲峰山法華寺
というわけで法華寺に行ってきました!
諏訪大社本宮の駐車場に車を止め、法華寺へ向かいます。
途中、諏訪大社の入口付近に明治維新前の神宮寺の建築物の配置図がありました。
当時は鎌倉西街道沿いにかなりの数の寺院が並んでたみたいですね。
法華寺はその中でも比較的大きかったことが分かります。
山門
少し登り坂を上がっていくと、赤い山門が目に入ります。
こちらが法華寺の山門ですね。
真っ赤な山門というのは結構珍しい感じがします。
ちなみに楼上には観世音菩薩像が祀られているそうですね。
本堂
山門をくぐると目の前に本堂があります。
法華寺の本堂は1999年に一度放火で焼けてしまっていて、現在建っているのはその後再建されたもの。焼失前の本堂は江戸時代に建てられたものだったらしいので実に惜しいことです・・・
本堂が再建されたのは2005年とのことなので、まだ15年程度しか経ってないことになりますね。
確かにかなり新しい感じでした。
大河ドラマなどでは信長が光秀の頭を欄干に打ち付けるシーンが良く描かれますが、欄干はないみたいですね(笑
ちなみに法華寺での一件と共に、信長と光秀には信濃でトラブルがあったって話があります。
諏訪まで来たけど全く戦っていない軍勢の士気を上げるため、信長と光秀を大将に模擬戦を行ったのですが、そこで光秀が勝ってしまって信長の不興を買った・・・というお話。法華寺からそう離れていない茅野にも光秀が屋敷(模擬戦の本陣?)を構えたと思われる地名が残されていたりもしますね。
要するに模擬戦で空気読まずに信長を負かした上、酒宴の席で余計なことを言って折檻されちゃった・・・という話になるようです。
まあただこの話、真偽も定かじゃないのでどこまで本当の話かは正直分かりません(汗
信長公記にもこの件については一切記載がありませんし。あるのは天正10年3月19日に信長が法花寺(法華寺)に陣を置き、諸勢の陣構えを指示したって話だけですね。ちなみに前日の3月18日に信長は高遠城に陣を置いていて、上諏訪まで移動してきた事が信長公記を見ると確認出来ます。
で、20日以降は連日複数の武将が信長の陣(法華寺ですね多分)に挨拶に現れているので、正直模擬戦なんてやってる時間は無かったんじゃないの?って気がします(汗
誰が挨拶に来てどういうやりとりがあったとか、結構細かく記載されているので模擬戦を行っていれば何かしらの記載が残っていて不思議じゃないでしょう。
そう考えると信長と光秀の不仲を印象付けるために作られた後世の創作って可能性が高いのでは?って気がしますね。
吉良義周公の墓
法華寺の裏手には吉良義周(よしちか)の墓が残されています。
吉良義周は米沢藩主上杉綱憲の次男。吉良上野介の孫に当たるのですが、後に上野介の養子となります。そして元禄14年(1701年)に吉良家を継ぎました。
しかしその翌年、忠臣蔵で非常によく知られる赤穂浪士の吉良邸討入りが発生。
事件の翌年、義周は評定所に呼び出されるのですが、そこで「仕方不届」として領地を召上げられてしまいます。ハッキリ言って赤穂事件の難癖を付けられたような形ですね。
そうして義周は高島藩主・諏訪安芸守忠虎預かりの身となります。高島藩では丁重に扱われていたようですが、3年後の宝永3年(1706年)、病によって21歳の若さで亡くなりました。その後幕府の検死が行われ、法華寺裏手に埋葬されたそうです。
元々身体が強くなかったみたいですが、それにしても若すぎますね・・・
吉良義周公の墓については本堂の向かって左手に看板がありました。
こちらの階段を上っていきます。
階段を上っていくと途中にも大きな看板が立ってました。
ただ、道は人ひとりが通れるくらいの広さしかありません。
鬱蒼としてして物寂しい印象ですね。
少し歩いてちょうど法華寺の真裏辺りに来た場所に墓はありました。
山の斜面にひっそり残されているって感じですね。
こちらが吉良義周の墓。
近くには看板が建てられていて、「元禄事件(赤穂事件)最大の被害者」という記載がありました。
事件の経緯を考えると、本人も無念で仕方なかったでしょうね・・・
まとめ
というわけで法華寺を紹介しました!
法華寺そのものはさほど大きな寺院ではなく、見て回るのに時間はかかりません。時間があれば諏訪大社本宮も併せて見ていくのもおすすめです。
また、この近隣には明智光秀公縁の祠が残されているので、時間があれば見ていくと良いですね!