こんにちは!ZIGです。
今回は道三塚を紹介します!道三塚は名前の通り「美濃の蝮」こと斎藤道三を祀る塚。
斎藤道三が居城としていた岐阜城(稲葉山城)・鷺山城からそう遠くない住宅地にあります。
道三塚について
弘治2年(1556年)、斎藤道三は嫡子・斉藤義龍と長良川で戦い、討たれます。
その後道三の遺体は当初崇福寺の西南(現在の岐阜メモリアルセンター内)に埋葬されました。しかし、建てられた塚は長良川が洪水を起こすたびに流されてしまったそうです。そのため天保8年(1837年)、常在寺の第27世・日椿上人が現在の場所に移し、現在の碑建てたと言われています。
常在寺は斎藤道三・義龍・龍興3代の菩提寺としても知られてますね。
「無念の最後を遂げた斎藤道三」の伝承は住民の間に残り、周辺の開発が進む中でも道三塚は守られ、今に残っているのだそうです。
道三塚へのアクセス
道三塚は岐阜メモリアルセンターの北側、住宅街の中にあります。
ちょうど岐阜城と鷺山城の中間あたりにあるのですが、正直目印と言える物はありませんでした。
車を止める場所もないのですが、近くの蝉丸公園に駐車場があるのでそこから歩くと良いかもしれません。
道三塚
というわけで道三塚へ。
大きな通り沿いでもないので本当に静かな、普通の住宅地の中にあります。
近くまで行くと石碑と看板が見えてきて、道三塚だと分かりました。
塚周辺はかなり綺麗に整備されてました。
看板には道三塚の作られた経緯が書かれてます。
古い写真も一緒に掲載されてたのですが、これは昭和29年当時の道三塚の写真だそうです。
白黒写真なのでハッキリとは見えませんが、今と違って木製の碑と看板が立てられてたみたいですね。そして当時は周囲に何も建物がありません。
なので道三の伝承は相当しっかり地元に残っていて、周囲が開発されてく中でも塚が残されたのでしょうね。
道三の碑は木に囲まれてひっそり佇んでました。
左側に生えてる木はかなり太いです。おそらく先ほどの昭和29年の写真に写っていたのもこの木なんじゃないでしょうか。
近くで見ると、確かに「斎藤道三公」の文字が確認出来ました。
日椿上人がこの碑を建てたのが1837年という話なので、200年近く前の物ということになりますね。
花も添えられてましたし、周囲が非常に綺麗に保たれていたのが印象的でした。
無念の最期を遂げた斎藤道三
以下は道三塚の看板に書かれていた内容、特に斎藤道三が討たれた経緯に関するざっくりとした解説です。
一般に知られている話としては、道三の実子ではないことを知った義龍が道三の実子二人を騙して討ち取り、道三を引退に追い込んだ上で戦いを仕掛けたと言われている。
2年前の天文23年、道三は家督を義龍に譲っているがこの引退は家臣団の手で半ば強制的に行われた物と考えられる。家臣の支持を失い隠居を余儀なくされた道三は最終的に義龍との武力衝突に至る。
弘治2年4月18日、長良川を隔てて衝突した両軍は数の上で劣る道三側が大敗し、多くの将兵が討ち取られた。道三自身も4月20日に城田寺に逃れようとしたところを討ち取られたと言われる。
斉藤義龍の母・深芳野は土岐賴芸の愛妾で、後に斎藤道三の側室になった方ですね。
なので道三の側室になったときに既に義龍を身ごもっていたという話があります。信憑性が定かじゃないですが、もし本当なら義龍は道三が美濃から追い出した美濃守護・土岐氏の血を引いてることに。そのあたりが戦いの原因になってても不思議じゃありません。
守護代の家を乗っ取り、守護を追い出して国を乗っ取った道三と、美濃守護・土岐氏の血を引いてるかも知れない義龍。
土岐氏に使えていた家臣団がどちらを支持するか?となれば答えは言うまでもありません。
長良川の戦いも戦力差が相当あったと言われてますし、最後まで道三側だった家臣は少なかったのでしょうね。
まとめ
というわけで道三塚についてまとめてみました。
道三塚は岐阜城からも近い場所にあるので、斎藤道三や織田信長ゆかりの地を巡るなら立ち寄ってみると良いんじゃないかと思います。
斎藤道三は2020年大河ドラマ「麒麟がくる」でも登場しますが、どんなキャラクターとして描かれるのか楽しみでもありますね。