こんにちは!ZIGです。
今回は滋賀県近江八幡市にある安土城跡を訪れたので紹介します。
安土城は織田信長の居城として非常に有名ですね!現在は大手道周辺と天主をはじめとした主郭部、摠見寺跡周辺が整備され、遺構を確認出来るようになっています。
目次
安土城について
安土城は信長が天下統一を進める上で築城した城としてよく知られてますね。
安土城は琵琶湖東岸にある標高199mの安土山に建てられた城で、現在は周りが陸地になっていますが、築城当時は南を除く三方が琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南のみが開けた地形だったと言われています。
信長は天正4年(1576年)に丹羽長秀を総普請奉行に命じ、安土城築城を開始。その後天正7年(1579年)には天主が完成し、信長も移り住みました。
しかしそのわずか3年後の天正10年(1582年)、本能寺の変により信長は自刃。その後まもなく天主を含む主郭部分が焼失してしまいます。この焼失の原因は未だによく分かってないですね。
その後もしばらくは城として使われていたようですが、天正13年(1585年)には廃城となりました。
なので信長の城として非常に有名な安土城ですが、実際信長が住んだのはわずか3年ほどに過ぎません。築城から焼失までの期間で見ても6年、廃城までの期間で考えても9年という短い期間で歴史から姿を消してしまいました。
知名度に対して思った以上に短命なんですよね。
ちなみに廃城後は信長が安土城内に建てていた摠見寺が信長の菩提を弔うと共に、現在に至るまで城跡を守り続けています。
安土城アクセス
安土城は公共の交通機関を使うならJR琵琶湖線「安土駅」から徒歩で20~30分ほど。2km位の距離があるので、歩くのが大変・・・という場合はタクシーか、レンタサイクルを利用する方が良いですね。安土駅近くには「レンタサイクルたかしま」という店舗もあります。
車でアクセスする場合は名神高速道路「八日市IC」もしくは「蒲生スマートIC」辺りが最寄りのインターになります。距離的には10kmちょっと、安土城跡へはおおよそ20分くらいですね。
専用の無料駐車場有り
安土城跡には専用の無料駐車場が完備されています!
150台ほどのスペースがあるので、よっぽど車が止められないってことは無いでしょう。
ちなみに駐車場は無料ですが、安土城跡は入山料(700円)がかかります。この点は注意ですね。
安土城跡
というわけで安土城跡へ行ってきました!
こちらが県道2号線沿い、安土城跡の入口ですね。
入口横に安土城址碑が建ってますし、県道2号線からも大手門跡周辺の復元石塁が見えるので見落とすことはまず無いでしょう。
ちなみに。
安土城址の石碑の文字は実に特徴的。
こういう字体で書かれた石碑も珍しいですよね(笑
この石碑は昭和2年に建てられたものらしいですが、もうちょっとカッコイイ字体にした方が良かったのではないでしょうか・・・
石碑横の道を入っていくと、左右に駐車場があります。
この日は平日の午前中だったためか駐車場もずいぶん空いてました。
なので出来るだけ大手門に近い場所に車を駐め、大手門跡へ向かいます。
ちなみに駐車場横には小さな資料館がありました。
ここにはトイレや自販機があり、お土産も少しですが販売してます。
あとは日本100名城のスタンプもここで押せるみたいですね。
安土城跡エリア内はトイレがないので、トイレはここで済ませておくと良いと思います(一応城跡エリア入口にもう一つトイレがあります)。
ちなみに上記の資料館エリアは有料で200円だそうです。私は早く安土城跡を見たかったので入りませんでした(笑
大手門跡と復元石塁
というわけでまず見えてくるのが大手門跡なのですが・・・
実は安土城の大手門は遺構が何も残ってないんですよね(汗
下の写真の真ん中、石塁が途切れて舗装された道路が通っている辺りに大手門があったと言われてます。
大手門周辺の石垣は他の城の建築のために崩されてしまったそうです。
おまけに江戸時代にはこの周辺が田んぼになっていたらしいですね(汗
なので現在の発掘調査で見つかった遺構を踏まえ、周辺の石塁が復元されてるとのことでした。
ちなみに。
安土城には大手門を含めて城正面に4つの門があったことが分かってますね。
信長は安土城に天皇の行幸を計画していて、そのため大手門を内裏と同様の3門にしたのではないか?と言われてます。
なので大手門の東西にはそれぞれ門がひとつずつ存在し、これで3門。あとは西側の門の更に西に枡形虎口になった門がひとつあり、これで合計で4門ですね。大手3門については行幸など公の行事の際のみ使用し、普段は西の枡形虎口の門から出入りしていたのではないかと言われてるそうです。
大手門東側復元石塁
こちらは大手門東側の門周辺の復元石塁です。
この石塁は東西約110mに渡って作られていたらしいですね。
現在は門があったとされる周辺のみ復元されてます。
大手門西側復元石塁
こちらは大手門西側の復元石塁。
ちょっと東側と石塁の形状が違うんですねー。
ちなみに石塁の高さに関しても史料が無く、正確な高さは分からないらしいです。
なので現在は見通しが良いようにこの高さになっているって話でした。
西枡形虎口門
そしてこちらが西門の更に西側にある枡形虎口の門ですね。
大手3門の西門と、枡形虎口の門は結構近距離で、並んで作られているような感じになってました。
安土城ってあまり戦をイメージした造りになってないって思ってたんですが、枡形虎口とかはちゃんと作られてたんですね。
安土城跡入山受付
大手門跡を通って大手道へ向かっていくと、大手道入口付近に受付があります。
受付の看板には「摠見寺」の文字が確認出来ますね。安土城跡は今も摠見寺が管理しています。
ここで入山料を支払う形ですね。
入山料を支払ったあとにパンフレットを貰えるのですが、パンフレットに安土城跡順路図がありました。
主要時間はおおよそ45分から90分。
実際見て回った印象だと、ゆっくり見て回るならやはり90分くらいは見ておいた方が良いんじゃないかな?という感じでした。
というわけで順路通り、大手道⇒主郭部⇒摠見寺跡と回ります♪
大手道
安土城の大手道はまさしく「見上げる」という表現がぴったり。
かなり角度がありますし、全長180mという大手道は一体どこまで続いているんだ・・・という感じ。
いや、ホントひたすら石段が続いてます(汗
この石段は幅が6mあり、左右に1mほどの幅の側溝があるので併せれば8mもの道幅になります。
途中まではほぼまっすぐですし、やっぱり防御を意識した造りでは無いんだなって感じですね。
ちなみに大手道には石段に使われた石仏が至る所に残されています。
大分表面が削れてしまって石仏だと判別できないものも多いですが(汗
築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しているとのことでした。
やっぱりこれだけの石段を作るのには大量の石材が必要だったでしょうし、石仏や墓石もかなり使われたのでしょうね。
伝羽柴秀吉邸跡
大手道に入るとすぐ左手にあるのが「伝羽柴秀吉邸跡」ですね。
羽柴秀吉邸跡は大きく2階層になっていて、下段が厩エリア・上段が屋敷などの主殿エリアになっています。
こちらが下段エリアの入口の石段ですね。
この辺りにはかなり立派な櫓門があったらしいです。
そしてこちらが下段エリア。
写真中央の木の辺りに厩があったらしいです。6頭を飼うことが出来る規模だったとのこと。
木の根元には何故か石仏や石塔が置かれていました。
これも安土城の築城の際に使われたものなのかもしれませんね。
下段と上段の間には石垣があり、上段へ登る通路が存在します。
石垣は綺麗に復元されていて、まるで砦か要塞みたいな感じですねー。
下段エリアの隅に上段へ向かう通路の入口がありました。
ここから上段へ向かいます。
通路は1.5mくらいは幅があるかな?という感じ。
手すりなどはないので落ちないように注意です。
こちらが上段エリアですね。
ここには主殿と隅櫓、台所の3棟の建物があったらしいです。
いやしかし流石に秀吉の屋敷だけあって敷地も広いですね!大手道に面していくつか屋敷跡がありますが、秀吉邸跡が一番広かった印象でした。
ちなみに秀吉邸上段エリアの石垣には1箇所だけ石垣が無い、窪んだエリアがあります。
ぱっと見は土砂崩れでも起きて石垣が崩れたのでは?という感じですが、近くで見ると確かにここだけ綺麗に石垣が抜けてました。
ここは用途がよく分かっていないそうで、謎のエリアらしいです。
一体何に使われてたんでしょう・・・
伝前田利家邸跡
大手道を挟んだ秀吉邸の向かいには「伝前田利家邸跡」があります。
前田利家は若い頃小姓として信長に仕え、槍の名手として「槍の又左」という異名でも知られてますね。
後の豊臣政権5大老のひとりであり、加賀藩100万石の礎を築いた人でもあります。
以下の写真は前田邸の入口、枡形虎口があったとされる場所ですね。
・・・ただ、前田邸はそのほとんどが木に覆われてしまっていて、大半のエリアは見ることが出来ません(汗
確認出来るのは入口周辺と、主殿があったと思われる郭への石段程度でした。
このあたりも調査が進むと良いですね・・・
こちらが枡形虎口の奥にある、主殿への石段ですね。
石段は登ることが出来ますが、郭の直前で立ち入り禁止になっていました。
そして前田利家邸の石碑も大手道から確認出来ますが、草に埋もれかけてて見落としそうなレベル。
なんとも不遇な扱いに見えてしまう前田邸でした(汗
伝徳川家康邸跡(摠見寺仮本堂)
大手道の右手、前田利家邸の上段の郭に「伝徳川家康邸跡」があります。
安土城に家康の屋敷もあったんだという事を私はこの時初めて知りました(笑
前田邸跡から再び石段を登り、徳川家康邸を目指します。
実はこのあたりで既に結構登りがキツい・・・と感じ始めました(汗
・・・ちなみに現在家康邸跡は摠見寺の仮本堂となっていて、家康邸の遺構は確認出来ません。
摠見寺の本堂は元々安土山の西側の峰にあったのですが安政元年(1854年)に焼失してしまい、その後昭和7年にこの場所に仮本堂が作られたそうです。摠見寺については後ほどまとめるのでここでは詳細は省略しておきます。
とりあえず、多分このあたりが入口・・・のはず(笑
立ち入り禁止って書いてありますね。
仮本堂は土日祝日などに特別拝観を行っていて、信長公の尊像や本堂襖絵を見ることが出来るそうですがそれ以外の時は入れないようです。
この日は平日なので入ることは出来ませんでした。
とりあえず確認出来たのは入口付近にある摠見寺の鐘くらい。
あとは仮本堂含め、拝観可能な日に来ないと見ることは出来ないっぽですね。
伝武井夕庵邸跡
伝徳川家康邸を過ぎ、更に大手道を登っていくと「伝武井夕庵邸跡」があります。
武井夕庵は信長の右筆を務めていた方ですね。要するに「手紙書く人」です。それに加えて外交など官僚的な仕事に従事していたので、他の武将ほど知名度は高くありませんが、信長の信頼も厚い人物だったと言われてます。
というわけで大手道を再び登っていくわけですが・・・この辺りから大手道は左右にカーブしていきます。
石段ひとつひとつも結構大きいので登るの大変です(汗
カーブし始めるあたりから若干道幅が狭くなりますが、それでも4m程の幅があるみたいですね。
ちなみにこの辺りから下を見るとこんな感じ。
結構遠くまで見渡せますね♪
安土城が使われていた当時はこんなに木も生えていなかったでしょうし、もっと見晴らしは良かったでしょうね。
大手道の石段が終わる辺り、左手に武井夕庵邸跡の石碑があります。
大手道の終わり、主郭部にも近い場所に屋敷を与えらている・・・という点からも信頼の厚さが感じられますね。
夕庵邸跡は建物の遺構は全く確認出来ませんが、井戸跡が残っています。
その周辺にも水路っぽい跡が残っていたので、ちょっとした庭園みたいなものがあったのかもしれません。
武井夕庵は茶人としても知られてますしね。
伝織田信忠邸跡
武井夕庵邸跡を過ぎると大手道の石段が終わり、少し平らなエリアに出ます。
信長の嫡男・信忠の屋敷跡があるのはこのエリアですね。
ここを進んでいくと天主などの主郭エリアと、摠見寺跡があるエリアへの分かれ道があります。
ここが分かれ道ですね。
まっすぐ(写真左手に)進めば摠見寺跡エリア、右へ曲がると主郭エリアです。
とりあえず順路通り進むのでまずは右折して主郭エリアへ。
・・・で、そんな分かれ道に接するように「伝織田信忠邸跡」の石碑がありました。
この石碑もまた見落としそうな位置にありますね・・・(汗
主郭への順路の脇が信忠の屋敷だったみたいなのですが、ここは何も残ってませんでした。
確かに平らなスペースはあるけど、石垣や石段・礎石といった物も何もありません(汗
発掘調査で屋敷があったことは確認出来たって事でしょうか・・・
黒金門跡
「伝織田信忠邸跡」の横を通り主郭エリアへ向かっていくと、再び石段が現れます。
この石段の先にあるのが黒金門。主郭部への主な入口のひとつですね。
黒金門への石段は大手道に比べれば角度も段差も緩やかです。
・・・といっても結構段数はありますが(汗
それでも大手道と違って木陰にもなるので、ちょっと楽ですね♪
伝織田信澄邸跡・森蘭丸邸跡
黒金門への石段の途中、左手には織田信澄邸跡・森蘭丸邸跡があります。
並ぶように石碑が建っているので、屋敷自体も隣接していたのだと思われます。
織田信澄は信長の弟である信行(信勝)の嫡男ですね。
なので信澄は信長の甥に当たります。信澄は明智光秀の娘を妻にしていたため、本能寺の変が起きた際に光秀との共謀を疑われ、織田信孝・丹羽長秀によって討伐されてしまいました。
実際共謀していた事実は確認されていないので、とばっちりで討たれてしまったと言われてますね。気の毒・・・
森蘭丸については信長の小姓としてよく知られてますね。
本能寺の変でも最後まで信長に付き従い、命を落としています。
ちなみに一般的に「森蘭丸」という漢字で認知されていますが、本来は「森乱丸」が正式な名称らしいですね。秀吉が本能寺の変後に発行した「惟任退治記」において「蘭丸」と記載させたため、その名前が広く認知されることになってしまったそうです。
なお、織田信澄邸・森蘭丸邸ともに屋敷の遺構らしきものは何も確認出来ませんでした。
完全に森になってしまってますね(汗
黒金門
石段を登り切ると、主郭部への主要な入口のひとつである黒金門跡があります。
このあたりの石垣は築城当時のものがそのまま残ってるらしいですね。
他の石垣よりも大きな石が使われていて、大きなものでは3トンを越える石もあるとのこと。
確かに全体的にひとつひとつの石がデカい印象でした。
ちなみに発掘調査で黒金門周辺も火災に遭ったことが分かっているそうです。なので天主と共に焼失してしまったのでしょうね。
主郭部側からも写真を撮ってみました。
枡形虎口の形がしっかり残ってますね。
当時はかなり立派な門があったんじゃないかと想像させてくれます。
伝長谷川秀一邸跡・織田信雄四代供養塔
黒金門から主郭部に入ると、すぐ左手に「伝長谷川秀一邸跡」があります。
なので天主へ向かう前にまずこちらへ。
長谷川秀一邸跡には現在信長の次男、織田信雄とその子孫3代を祀る供養塔が建てられてます。
石段があるのですが、見落としやすいので注意ですね。
ちなみに長谷川秀一は若い頃から信長の小姓として仕え、「長谷川竹」という名前で呼ばれてました。
信長公記にもこの名前で登場しますね。
父の長谷川与次も織田家の有力家臣だったといわれているので、秀一も織田政権を支える重要な人物だったのだと思われます。
長谷川秀一は同じく信長の小姓だった万見仙千代(重元)が天正6年(1578年)に有岡城の戦いで討たれてしまった後、仙千代の役割を引き継いで奉行衆として重要な役割をこなしました。ちなみに上記の長谷川邸も元々は万見仙千代の邸宅で、仙千代が亡くなったことで長谷川秀一の邸宅となった事が知られてますね。
また長谷川秀一は本能寺の変が起きた際、家康の堺見物案内役を務めていたため伊賀越えをサポートし、共に熱田まで逃れて窮地を脱した事でも知られてます。
石段を登り、細い道を抜けていくと少し開けた場所に出ます。
ここが伝長谷川秀一邸跡ですね。
広さはそれほどでもありません。先ほど見た武井夕庵邸跡と同じか、それよりも狭いくらいですね。
本来はもっと広かったのではないかと思うのですが、おそらく供養塔周辺のみ整備されて残っているということでしょう。
正面に4つ並ぶ五輪塔が織田信雄公4代供養塔ですね。
向かって一番右手にあるのが初代・信雄公の五輪塔。
あとは左手から順に2代高長・3代長頼・4代信武となっていました。
なので左から2代⇒3代⇒4代⇒初代というちょっと変わった順序になってますね。
安土城の仏足石
長谷川秀一邸を見た後は本丸および天主の方へ向かいます。
このあたりは主郭部の石垣が綺麗に残ってますね。
復元された部分もあるのだと思いますが、築城当時のものも残っているんだと思います。多分。
建物は全く残されてませんが当時の姿を想像させますね。
ちなみに発掘調査でこの辺りにも門(二の門)があった事が分かってるらしいです。
・・・で、この本丸へ向かう途中の道に仏足石がありました。
仏足石というのはお釈迦様の足跡を石に刻み、信仰の対象としたものだそうです。
安土城の石垣に使われていたらしく、昭和初期にこの辺りの崩れた石垣の中から見つかったものとのことでした。
あとで調べて見たら仏足石は奈良の薬師寺にあるものが有名みたいですね。他には清水寺などにもあるそうです。
確かに岩の上面に足跡がしっかり刻まれています。
とても何百年も前に作られた物とは思えないくらいくっきりしてますねー。
石垣に使われた分、逆に綺麗に足跡が残ったって事なのかもしれません。
そしてデカい。靴のサイズにしたら30を余裕で超えそうです(笑
二の丸東溜り
仏足石の左手に石段があり、ここを登ると「二の丸東溜り」という空間に出ます。
東溜りには二の丸へ通じる階段や本丸へ通じる通路があったと言われてますね。
また、この石段を登った辺りにも門(三の門)があったらしいです。
こちらが東溜りですね。
左に行けば二の丸、右に行けば本丸に行けます。
・・・で、この場所には「護國駄都墖」という石碑が建ってました。
結構デカい石碑です。
この石碑、摠見寺の順路図にも名前は載っているのですが解説が一切無いので何の石碑かは全く不明。ただ、石碑の裏を見ると天保13年(1842年)建立と書かれていたので、江戸時代末期になって建てられたもののようでした。
ちなみに後で調べてみたら「墖」って字は「塔」のことみたいですね。
で、護国はそのまま国を護る、そして「駄都(だつ)」は仏舎利や卒塔婆を指す言葉でした。まあ要するに護国のための塔ってことのようです。しかし何故ここに建てられたのかは全く分からず(汗
そして護國駄都墖の横にはこれまた意味ありげな巨石がひとつ。
こちらに関しても解説も何もないので何のためのものかは分かりません。
でも、なーんか意味ありげな形してますよねぇ・・・
本丸跡
・・・とまあ意味ありげな巨石も気になりましたが、とりあえず本丸跡へ向かいます。
二の丸は後ほど回ることにしました。
このあたりもしっかり石垣が残ってますねー。
こちらが本丸跡。かなり広いです。
ここには天皇を迎える「御幸の間」があったと言われてますね。
もちろん屋敷は残っていませんが、礎石を見るにかなり大きな建物だった事が分かります。
この建物は慶長年間に改修された京都御所の清涼殿に非常によく似た構造だったことが分かってるらしいですね。天皇の行幸の際、ここに滞在してもらう予定だったといわれてます。
ちなみに高床式の建物だったみたいですね。
本丸を囲む石垣も綺麗に残ってますねー。
ちなみに本丸跡からは他の郭へも行けそうな感じだったのですが、天主へ向かう道以外は立ち入り禁止となってました。
残念。
本丸取付台
というわけで本丸跡から天主跡へと向かいます。
天主へは本丸取付台というエリアを通る形になってますね。
本丸北側にある石段から天主取付台へ。
ちなみにこのあたりの石垣、ヒビが入った石が結構あるように見えました。
もしかしたら天主が燃えた時に焼けた影響なのかもしれません。
本丸取付台の途中には「八角平」の石碑が建ってました。
八角平は天主の北側にあった郭ですね。
本来はこの辺りから八角平へも行くことが出来るのですが、立ち入り禁止となっていました。
八角平は以前は見ることが出来たらしいです。また整備されて見れるようになってくれると良いですね・・・
ちなみに八角平は「伝菅屋邸跡」と伝わってます。
「菅屋」は菅屋長頼のことですね。若い頃から信長に仕えていた人で、主に奉行衆として活躍しました。主郭部に邸宅があることから信長からの信頼も厚かったということでしょうね。
本能寺の変の際は信忠が立てこもる二条御所に駆けつけ、信忠に殉じた事が知られています。
【安土城の謎】中央に礎石がない天主跡
本丸取付台の隅にある石段かあ天主跡へ。
石段を登りきると・・・
巨大な礎石が並ぶ空間が現れます。
ここが天主跡ですね。
ちなみに天主跡には看板があるのですが、完全に真っ白になってました(笑
おそらく天主の解説があったと思うのですが、すでにただの掲示板みたいな状態になってますね・・・
ま、それは良いとして(笑
とりあえず石垣に登って天主跡の全景を撮ってみました。
いやー、礎石がデカい!写真などで見たことはありましたが、実物を見ると驚きます。本当にデカい。
高さ33mもの建築物を支える礎石なので、やっぱりそれなりの大きさが必要だったって事でしょう(建築とか全く知らない素人の感想なので間違ってたらすいません汗)。
ちなみに33mってどの程度の高さの建物なのか?というと、おおよそですが10階建てのマンションと同じくらいの高さになります。山の頂上に建った10階建てのマンションと考えればイメージしやすいでしょう。
姫路城の天守が高さ31.5mなので大体同じくらいって感じですね。
いや、そう考えるとホントデカいな(笑
・・・また、安土城の天主は本来なら当然存在するはずの中央の礎石がないことが知られてますね。
この部分です。
話としては知ってましたが、確かに一箇所だけ礎石が抜けてました。
これは安土城の謎とされていて、そのため天主の中央は吹き抜けになっていたのでは?なんて話もありますね。
参考までに、以下は安土城郭史料館にある安土城の20分の1スケール模型です。
この模型は吹き抜けがあった説を採用してますね。
地下1階から地上3階までが吹き抜けになってます。
真偽は定かじゃありませんが、ホントに吹き抜けだったら当時としては恐ろしく画期的な建築物だったでしょうね・・・
二の丸跡(信長公本廟)
本丸跡・天主跡を見た後は二ノ丸へ。
二ノ丸跡には現在信長公本廟があります。
秀吉が天正11年2月に信長の太刀や烏帽子・直垂などを遺品として埋葬し、本廟としたと言われてますね。
こちらが信長公本廟の門です。
本廟は石垣でしっかり囲まれているので近くまでは行けません。
奥に見えるのが本廟ですね。
天正11年6月2日の一周忌には織田家一族や家臣を集め、盛大な法要が行われたそうです。
これに習う形で現在でも摠見寺では6月2日に法要(信長忌)が行われてますね。
摠見寺跡
二ノ丸を見た後は一旦「伝織田信忠邸跡」まで戻り、摠見寺跡へ向かいます。
摠見寺は臨済宗妙心寺派の寺院。安土城築城の際に安土山西側の峰に移築され、信長がみずからの菩提寺にしたと言われています。
先ほども触れた通り、安土城は今も摠見寺が管理してますね。
摠見寺への道は緩やかな上り坂になっています。
このあたりの石段も築城当時のものかもしれませんね。
・・・と、緩やかな登りが続くと思ったら、途中からかなり急な石段になりました(汗
ここも大手道と良い勝負で登り甲斐のある石段でした。
ホント受付で杖を借りてくればよかったな・・・とこのありでも思ったのをよく覚えてます(笑
摠見寺本堂跡
石段を登りきるとまず三重塔が目に入ってきます。
今までの順路からはまったく見えない位置にあるので、目に入った瞬間結構驚きました。
安土城跡で初めて見る建築物なので、余計に驚いたのかもしれません(笑
そして三重塔より手前にあるのが摠見寺本堂跡ですね。
現在は基礎のみが残されています。
摠見寺本堂は先程も書いた通り、本能寺の変では焼失を免れたのですが安政元年(1854年)の火災で焼けてしまいました。そのため昭和7年に大手道沿に仮本堂が作られたわけですね。
本堂にも安土城や信長に関する史料があったんじゃないか?と思うとなんとも惜しいことです・・・
ちなみに摠見寺本堂跡の横からは琵琶湖の「西の湖」が見渡せます。
ここはなかなかに絶景です。
現在は景色の一部が湖ですが、当時は見渡す限り琵琶湖が見えていたのでしょうね。
三重塔
本堂横にある三重塔は室町時代の建築物で、天正3年〜4年頃にここに移築されたそうです。
つまり安土城築城が始まった頃に移築されてきたってことですね。元々は現在の滋賀県甲賀市石部町にあったものらしいです。
ちなみに棟柱には享徳3年(1454年)の建築、天文24年(1555年)修理の墨書きがあるとのことで、移築された時点で100年を超える歴史ある建築物だったことになりますね。移築するにあたって揉めたりしなかったんでしょうか・・・
ま、信長なら問答無用で移築させたでしょうけど(汗
全体が映るように撮った写真がこちら。
いや、近くで見ると本当にデカいですね。
そして重厚感がすさまじい。かなり老朽化が進んでいるように見えますが、歴史的な建築物なので長く保存されるといいですね。
二王門(楼門)
三重塔の横の石段を降りていくと二王門があります。
今度は今までと違い、かなり急な下りになってました(汗
下りは下りでしんどい・・・
こちらが二王門ですね。
こちらもかなり年季が入ってるように見えます。
表に回ってみるとこんな感じ。
いや、この二王門も迫力がすごいです・・・
この門も天正年間に信長が甲賀から移築させたものだそうですね。
棟木には「元亀2年(1571年)7月甲賀武士山中俊好建立」とあるそうで、先ほどの三重塔よりは少し新しいものみたいです。移築された当時はほぼ新築だったって感じでしょうか。
ただ門内に安置されている金剛力士像はもっと古いものだそうです。頭部の内側に「応仁元年(1467年)因幡院朝作」と銘が残っているそうなので、さきほどの三重塔と割と近い年代の作品ですね。
こちらが向かって左側の金剛力士像。
凛々しい感じの表情ですね。
そしてこちらが右側の金剛力士像。
こちらは荒々しい雰囲気を感じさせます。
金剛力士像は二王門と共に国の重要文化財に指定されてるとのことでした。
百々橋口道
二王門を過ぎればあとは山麓へと降りていくわけですが、ちょうどこの道が「百々橋口道」と言われる道ですね。
城下町から摠見寺境内を通って黒金門への通じるこの道は普段の登城に使われていた道と考えられています。
ただ、現在は百々橋口道の入口が通行止めになってしまっているため、百々橋口道から山麓へ降りることは出来ません。
これは多分アレです。安土城跡を有料化しているので、百々橋口道からは出入りできないようになってるんでしょうね(汗
というわけで百々橋口道の途中から大手道への連絡通路を通り、最初に通った受付に戻ります。
この連絡通路を5分ほど歩いて行くと・・・
最初に見た「伝羽柴秀吉邸跡」に出ます。
戻ってきたー!って感じです(笑
以上で安土城跡を一回り。実際回ってみるとやっぱり90分くらいかかりました。
まとめ
というわけで安土城跡を紹介しました。
流石に安土城は広いですね!見どころも色々とあって楽しめました。
ただ、やっぱり立ち入り禁止になってしまっている場所もあるのが残念ですね。遺構が安土山全体にあるのでなかなか整備も大変だとは思いますが、見て回れるエリアがもう少し広がるといいな・・・と思わずにいられません。
発掘調査も2009年で一旦終わってるらしいですが、今後の追加調査&整備を期待したいですね。